第6回「中庸」

第6回「中庸」
みなさまごきげんいかがですか?
ピラティス指導者のGinger(じんじゃ~)です。

晩夏の残暑はありますが、風は涼しく、夕刻の空が美しい季節です。
今この原稿を書いている今宵は満月を楽しみにしておりましたが、生憎の曇り空。それでも月が無いわけではありません。雲の後ろにおられるであろうお月様を想いながら静かに夕げの支度をする時間は心が安らぎました。
十月六日の中秋の名月は晴れると良いですね。
image4 このコラムが掲載更新された今は秋分の直前。
秋分は陽の氣と陰の氣がちょうど半分になる日。太陽の光がまっすぐに地球に差し込み、あらゆる境目は限りなくゼロに近くなるため、自分の根源と繋がりやすくなる日として古今より洋の東西を問わず大切にされてきました。
日本では秋分前後の一週間は秋彼岸。彼岸とはいわゆる「あちら」の世界。ご先祖様への感謝とともに自分自身のルーツに想いを馳せるのも良いですね。ルーツとはご先祖様のことのみではなく、自分自身の根っこ、生きる道筋のはじまり、信念ともとれるでしょう。
月影さやかな夜は独り静かに坐して、自分の望みや想いに心を向けるのも良いかもしれませんね。

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ピラティスにまつわるコラムも、今回でもう六回目。
この半年間、勝手気ままに色々と書かせていただいて参りました。とは言え私も完全に自由奔放に書いてきたわけではありません。これまで書いてきたコラムのテーマを決めるにあたってベースとしてきたものがあります。
それは、私がピラティス指導者養成コースで使った教科書にある Pilates Movement Principal です。これは「ピラティス動作の8つの法則」と訳されています。
「ピラティス動作の8つの法則」は以下の通りです。

ピラティス動作の8つの法則
1.呼吸
2.集中
3.コントロール
4.中心
5.全身での動作
6.正確さ
7.バランスのとれた筋肉の発達
8.リズム

※上記の8つを以下の6つとすることもあります。
1.呼吸
2.集中
3.中心
4.コントロール
5.正確さ
6.フロー (正確に筋肉の働きを理解し、タイミングよく骨の動きを導いていく必要があるため、「全身での動作」・「バランスのとれた筋肉の発達」・「リズム」の三つが集約されています。)

なるほどと思われる方もおられれば、全然わからないと思われる方もおられるでしょう。ただ Major principles というものは、どんな分野においても共通するものですから、一つの視点としてお楽しみいただければ幸いです。
今回は「中心」をベースにコラムを書き進めて参ります。

ピラティスムーヴメントにおける「中心」には幾つかの意味があります。
まずは重力の中心、と考えることが一般的です。骨格や肉体構造、姿勢、体勢、動きの静動によって中心は微妙に変わりますので、此処と決めずに、四肢に無駄な力みが無くいつでも自由に動き出せる場所と捉えておくといいでしょう。別の言い方をすれば呼吸が楽に入るところ、それはもちろん静止時と動作時の両方の中心に於いてです。
平均的に静止時に腕を体側に沿って楽に下ろして真っ直ぐに立った場合、中心(重心)は第二仙椎の前あたり、もしくはその人の身長の55%のあたりにあると言われていますが、性別や他の様々な状況によって中心は異なります。
次に、動作の源としての中心です。動作は、自分の中心から外側へ向かって放射状に発されることで、身体に安定や強靭さをもたらします。
動作時に中心がうまく取れて(探せて)いない時、または崩れている時は、大抵身体のどこかが力んでいる時です。そんな時はいつもならできるエクササイズがうまくいかなかったり、呼吸が浅くなったり、呼吸を止めてしまっていたり、筋肉の緊張など無用なもがきが生まれます。
動作時も静止時も中心がぶれない状態を、ピラティスであればコアが働いている、ヨガであれば臍下丹田に力や呼吸が入っている、武道や伝統芸能などでは腰が入ってる、心が静まっている、と言うことも出来るでしょう。日常においては身体のどの部分も無理をせずに呼吸が楽にできる状態、でしょうか。
私はピラティスの指導をしていますが、何もピラティスだからと言ってコアという言葉に執着やこだわりはないので、みなさん自身がそれぞれにしっくりとくる馴染みのある言葉で、自分の中心を感じて欲しいと思っています。
image3 上虚下実という言葉をご存知でしょうか?
これは禅の言葉で、上体がリラックスして下半身に安定感がある日本古来の身体技法です。
武芸の世界では出来る限り余計な筋肉の力みを作らず、骨格の構造に逆らわない自然な骨の動きを利用することで、より強い力を発揮することができるように鍛錬をします。力は剛毅なものと軽く柔らかいものに区別され、強さよりもその質を問い、氣の扱いによる力を好み、単に力任せであるものを嫌います。
これは農民が鍬を使って畑を耕す際や斧で薪を割る際にも自ずから用いられたはずです。力任せに鍬や斧を振るうのでは筋肉は緊張するばかりで身が持ちません。水田に稲を植える作業も、日々繰り返す動作は自然と練られ、骨格筋の使い方に影響を与えます。田植えの形を儀式化したものが相撲の立ち合いです。腰を低く落とし腹は下へ向け、お尻は上へ向けて骨盤はやわらかく回転運動をしています。重心は自然と爪先の方へかかりますが、安定した下半身の使い方が上体を自由にし、粘りのある立合いを生み出します。実際にお相撲さんの立ち合いの型を取ってみると感じることができると思います。立ち合いの型は内腿の柔軟性や股関節や腰部の柔らかさが無いと難しいことがわかるはずです。日本の武芸に多く見られる、所謂『腰の入った』姿勢は足腰への負担を軽減するために股関節や膝をやわらかく使うことで自然と生まれたものといえるでしょう。
軽く柔らかい力を発揮するには呼吸法により筋肉をリラックスさせ、臍下丹田に代表される中心の感覚を無意識的に持てるように鍛錬をすることが大切です。

矢田部英正氏の著書「たたずまいの美学 ー日本人の身体技法(中央公論新社 2011年 文庫版)」ではギリシア、インド、日本の三つの文化における仏像の立ち姿、座り姿の比較による身体技法の違いを研究していますが、これは非常に興味深い観点です。なぜ比較対象が彫刻なのかは、彫刻のモデルの身体技法とそれによって現れる身体的特徴を彫刻の造形から読み解くことができるからです。
例えばまず古代ギリシアではオリンピアでの競技で活躍する戦士たちが投擲や徒競走、戦車競技やレスリングをするために獲得した逞しい上体や四肢の骨格筋の発達を彫刻に見て取ることができます。インドではもともと仏陀を彫刻で表現することはしてきませんでしたが、北インドのガンダーラにギリシア文化が渡来したことをきっかけに人々はギリシア彫刻の美しさに魅了され、自分たちもギリシア人が神々を具現化するのと同じように仏を彫刻したのだといいます。北インドは南インドのドラヴィダ系の丸顔ではなく、顔の堀りが深くシャープな顔つきが多いアーリア系。そのためかガンダーラ仏はギリシア彫刻の影響も加わり、目鼻立ちがはっきりとし、上半身は肩幅が広く腰もくびれた逆三角形の上体と長い手脚という西洋的身体バランスを持っています。
骨格筋は日常生活で繰り返される動作をよく現しますから、オリンピアの競技をする戦士の身体と座禅や瞑想をする修行僧とでは全く肉体の様子が違うはずなのですが、彫刻という美の表現に多少のデフォルメが用いられることや、また写実的に真実を再現することよりも当時の民衆の心にある尊い人の姿を掘り出していると見ると良いのでしょう。

これは私の考えですが、仏陀がシッダールタという名の王子だった頃は飢えることもなく、辛苦を知らず、豊かに暮らしていました。聡明で活発な青年だったとも伝えられていますから、悟りの道へと入り瞑想や断食で一時は痩せこけても、もともとの身体付きはギリシア彫刻とまでは行かなくてもかなり良かったのではないかと思いますが、実際に仏陀に会ったことはありませんから、こればかりはなんとも言えません。
さてこれに対して日本の仏像はなで肩で腰まわりはくびれずにどっしりとしています。古代ギリシア彫刻に似た肉体表現は金剛力士像や不動明王といった怒れる神々、四天王立像や十二神将といった武夫像、そして天灯鬼、邪鬼の類のみです。
このなで肩で腰まわりがどっしりとした感じは、仏像を横から見るとよくわかります。矢田部氏の著書では室生寺釈迦如来像と平等院阿弥陀如来像、そして円成寺大日如来坐像の三体の坐像を比較しておられます。室生寺釈迦如来像は貴人坐のように横幅を広く大きく見せることで堂々とした豊かさをたたえています。平等院阿弥陀如来像は人体の骨格構造を理想化し、左右対称の形態を取ることで造形的な安定感を生み出しています。この坐像に関しては胸郭の厚さが削がれ室生寺の坐像とは量感が異なります。興味深いのは、運慶による円成寺大日如来坐像です。この坐像はこれまでの二体と異なり、骨盤が軽く前傾して腰まわりがギリシア彫刻のそれのようにきゅっとくびれています。この坐像だけでなく運慶の作品には腰がくびれた逆三角形の上体がよく見られます。骨盤が前傾になると肋骨が開いて(リヴ フレアー)所謂『反り腰』になります。運慶の坐像の腰がくびれているのは、この坐像のモデルが柔軟な腰背部の使い方をしていたからではないかと矢田部氏は著しています。呼吸法や臍下丹田の意識によるリラックスによって腰背部の柔軟性が出れば、背骨が伸びやかに天へ伸びる上虚下実の姿勢を作り出します。彫刻は身体技法の写実表現ではなく動作の表情を刻していると言えるでしょう。
image6 さて、この「中心」を「中庸」と捉えた場合はどうでしょうか?
中庸はアーユルヴェーダや東洋医学を学んでいると必ず耳にする言葉です。
森羅万象は陰陽の二つに分けることができ、陰陽からいのちが生じます。陰と陽は「互根」と言って互いの存在によって成り立っています。互いに対立する関係でありながら依存もしているという関係です。昼がなければ夜はなく、熱がなければ寒さもありません。身体では陰が下半身、陽が上半身。陰がお腹、陽が背中です。これは農耕民族の私たちの祖先が田んぼで働く際に、足元には水があり、太陽の光が背中にあたたかくあたっていたことを想像するとわかりやすいですね。
しかし自然界の中に絶対的な陰陽はないと考えられています。陰陽図と呼ばれる白(陽)と玄(陰)の勾玉が互いに巻き込むような形の図では、白の勾玉の中に玄の円があり、玄の勾玉の中に白の円があります。つまり陽の中にも陰はあり逆も然りということです。また、絶えず変化する陰陽バランスはどちらかが盛んになればどちらかが衰えるシーソーのような関係です。四季で言えば春から夏へ向けて陽の氣は高まり、夏至をピークに高まり切った後は衰え始めます。天高く放り投げたボールは、どんなに高く上がっても頂点に達すれば必ず地上へ落ちてくることと同じですね。これを「消長」と言い、秋分で中庸に戻り、陰気に転じます。量の変化が行き着くところまで行きつけば質が変わるということです。これを「転化」と言います。陰氣が高まるということは寒さが増すということですから、冬至で最高に高まった陰氣は衰え始め、春分で中庸に戻ります。そしてまた陽氣に転じていくというサイクルを繰り返します。
私は何事も中庸でいると心地よいとは思いますが、陰陽があるからこそいのちが生まれ、極端があるからこそ中庸のありがたさを感じられます。
アーユルヴェーダでは私たちの身体は自然界を構成する同じ五元素で成り立っていると考えています。季節の移り変わりで陰陽バランスが変化するのに呼応するかの如く身体の中の陰陽バランスもまた変化をしているわけですから、ピラティスムーヴメントを行う中で中心を探すこともまた流動的ととらえても良いような気がします。
なんでも教科書通りにこだわりすぎると考えばかりが先走り、感じることを忘れてしまいがちです。
image2 今回はピラティスムーヴメントの原則の一つである『中心』を肉体的な視点でとらえ、更に少し解釈を引き伸ばし『中庸』について書かせていただきました。
馴染みの薄い表現もあったかも知れませんね。おゆるし下さい。
中心がうまく働き、骨の配列に無理をかけずに身体を導いて動かすことができれば、内臓は本来の機能を十分に発揮出来る位置に戻り、それによって自然と代謝は上がっていきます。自立神経が整いやすくなり、晴れやかな気分で日々を過ごすことが増えていくことでしょう。
氣血水のめぐりがよくなった身体は、自ずと心を輝かせます。
心は、鏡と同じです。向き合った相手もあなたの心を映す鏡。
期待や執着は鏡を曇らせます。
自分自身の中心をブラさぬよう、いつもリラックスしていられたら良いですね。呼吸を深めましよう。
日々の小さなことをていねいに。呼吸を穏やかに、優美に…。
それではまた次回。


profile PROFILE : Ginger(じんじゃ~)

  • アーティスト
  • マットピラティス/TYE4®指導者
  • アーユルヴェーダ セルフケアアドヴァイザー
  • 英国にて衣装デザイン/制作を学び、デザイナーとして様々な身体表現者たちと関わる中で心身の不一致を感じ、そのコントロールへの興味を深める。
    帰国後、ピラティスに出会い指導者に。アーユルヴェーダや東洋医学、薬膳の智慧を取り入れ、老若男女、プロの役者、ダンサー、武道家など幅広く指導。
    個々人自らが『感じる力』を磨くことを何よりも重要視している。
    英語でのレッスンや海外講師の通訳、人体経絡図の挿絵など、ピラティスと英語・アートをリンクさせた活動も積極的に展開している。
    近年はピラティスという分野を超えて『今、自分自身が発する呼吸(言葉)と想い、そして行動がすべて気持ちよく一致しているか』を大切に指導を展開中。
    Instagram: @ginger_jinjya