第9回「心身」
みなさまごきげんいかがですか?
ピラティス指導者のGingerです。
明け方の空気がキリリと澄んで、黎明の神秘さの増す時候となりました。
先日の満月はとても地球に近かったため、眩しいほどの光を放つ十四夜には期待を募らせたのですが、翌日は夕刻より雨が振り出し満月は闇の中でした。
明け方。仄暗い街へ出ると黄金色のお月さまが沈み切らず、紺碧の天空の低いところでいざよい、夜の残る街を静かに照らしておられました。駅へ向かう私に『いってらっしゃい』と微笑んで下さっているかのように思えて安心しました。息をのむほどの神々しさに、嬉しくて私もにっこり。振り向けばほのぼのと明けゆく空が次第に白み、高い建物の黒々とした陰の合間に茜、朱、橙、桃、紫、藍と色が重なり混ざり合い、見ている間に一つのあかるい光にまとまり、世界は碧から蒼となり、先ほどの美しいドラマなどまるで無かったかのような顔をして朝が始まりました。
空の色はひと時も同じ色にとどまりません。濃さや薄さも含めて雲や光によっても見え方が変わります。
私たちの心や身体も一定状態にとどまることなく、自然の大きなリズムの中でゆらぎ、日々新たに生まれ変わり続けているように思います。
変わり続けるものの中で、自分が落ち着いてまっすぐに信じる道を歩めている時は、心が良い状態にあるのではないでしょうか?『健康』とは、身体のことだけではなく心の在り方が深く影響をあたえるものです。
今回のコラムは、いつもようにアーユルヴェーダの智慧をお借りして、心の質について書きたいと思います。もちろん、ピラティスのことも。
どうぞ、あたたかい飲み物とほっとする甘いものを用意して、のんびりと読み進めて下さいね。
アーユルヴェーダの智慧は人の身体や心を超えて、魂の根源を大宇宙から俯瞰するような広大さがあります。与えられた身体が自分のすべてではなく、もっと広い視野を持つことで生命の源、たった一つの真実を認めていくことを促します。そのため初めてその医哲学に出会う人は、アーユルヴェーダの奥深さに驚いたり、途方もないものに感じてしまうかもしれません。
しかしながら五千年も前から脈々と医聖たちによって受け継がれてきた叡智だからこそ、誰もが小さな習慣から始められる心の使い方があります。
アーユルヴェーダは自分一人だけの幸福など勧めていません。富も名誉も与えられた人にこそ奉仕と陰徳を促します。人は一人一人与えられた課題が違いますから、今の自分を他人と比べることは無意味です。まずは自分の欲することを知り、今行なっていることが自分の望むものを叶える為に最適な行動かを見極めます。その見極めをするための様々な方法をアーユルヴェーダは教えてくれています。
これはまさに今回のコラムのテーマなのですが、今の自分が心地よいと感じる行動が取れている時は、身体と心の両方が一致している時と言えます。
本来はひとつである身体と心ですが、現代社会ではもちろんのことアーユルヴェーダの聖典が書かれた五千年前から身体と心の不一致は人の健康を左右すると考えられてきました。コラムの第1回目で詳しく書きましたが、アーユルヴェーダでは『思い、言葉、行動』の三つが一致していないことは病気の原因になると考えます。現代社会のようなストレスの無さそうな五千年前ですら人は自分の思いとは別のことを口にしたり、言葉とは全く違うことを行ったりして病の原因を作っていたんですね。では『言葉、行動』を司る身体と、『思い』を司る心について考えてみましょう。
まず身体ですが、アーユルヴェーダでは人の身体は自然界と同じ空風火水地の五元素で構成されると考え、その五つの要素で構成されるヴァータ、ピッタ、カファの三つのドーシャ(トリドーシャ)が身体の中に存在するとしています。このトリドーシャのバランスでその人の体質や健康状態を診断し、そのバランスを整えることで治療を行います。生まれ持ったトリドーシャバランスは人それぞれ違うので、その人にとって生まれた時のトリドーシャバランスに最も近い状態がその人にとってベストであるとされます。
では、一年を通じて風邪ひとつひかず、アレルギーも無く、怪我も無く、つまり肉体が丈夫であればその人は健康と言えるのでしょうか?それは、前述したように心の状態を無視しているため、判断基準としては不十分と言えるでしょう。
身体の健康を左右するトリドーシャとは別に、心を左右するメンタルドーシャ(ラジャス、タマス)というものがあります。アーユルヴェーダではこの二つのメンタルドーシャのバランスも大切であるとしています。コラム第7回でも書きましたが、その人が『健康』かどうかを判断する際に、心が穏やかで満たされているかどうかは現代医学においても重視されています。
アーユルヴェーダでは心の質にはサットヴァ、ラジャス、タマスの三つがあると考えます。これらはトリグナ(三つの性質)と呼ばれています。サットヴァは純質、ラジャスは檄質、タマスは鈍質と呼ぶことができます。例えばサットヴァは透明で広がりがあり、静かにすべてを輝かせる空間や光。ラジャスは風や火。とどまることなく流れ、熱さと冷たさを持ちます。タマスは土や石。長い間同じ状態を保ち、光や熱も通しません。 トリドーシャで言えば空と風の要素を持つヴァータや火と水の要素を持つピッタはラジャスが多くなると大きくなり、逆もまた然りです。また同様の法則で、タマスが増えると水と地の要素を持つカファが強くなります。サットヴァが増えるとこでトリドーシャは均衡を得て鎮まります。
心の不安定はラジャスとタマスが悪増した時に起こります。
ではサットヴァのみを高めるように心身を養生すれば良いのかというと、そうではないのです。全ては調和です。
ラジャスはラーガ(偏愛)、つまり何かをとても好きで、その感情が過剰になり偏って執着を生み「もっと欲しい」という物質的な欲望に人を駆り立てます。ラジャスに心が支配されてしまうと、人間が本来持つ冷静さは失われ、身体も落ち着かず調和とは遠く離れてしまいます。
しかしラジャスがなければ私たちは何か目標に向かって努力をするという活発さも得られず、腰を上げて行動を起こすことも難しくなります。例えばお休みの日になるといつまでもお布団の中でダラダラと携帯電話をいじって過ごしてしまいがちな人はラジャスが必要ですね。逆に仕事に趣味に勉強にと、いつもめまぐるしく動いて心も身体も忙しくしている人はラジャスが高まりすぎてしまいがちです。
ラジャスそのものが良くないのではなく、心の鍛錬によってラジャスに心を支配をされないようになることが必要です。気をつけることは、寄付や祈りや瞑想、もちろん私たちが実践するヨガやピラティスも、見た目の行動としてどんなにポジティブなものであってもその行動の動機が人からすごいと思われたい、感謝されたいというエゴや自分のプライドを満足させるためだけのものだとしたら、行動による結果に執着をして心は落ち着かず、焦り、結果的に自分自身を傷つけます。他人と自分を比較して、ものごとを優劣でしか判断できなくなっている時は純質の心、サットヴァを高めてラジャスを克服しましょう。もちろん優劣をつけること自体は悪いことではありません。より良いものを求める気持ちが自己鍛錬につながります。ポイントは、執着をしないことです。良いことも悪いことも潔く手放すことで次の段階への成長につなげます。
タマスは身体を休めるエネルギーです。タマスが増えるから人は休むことができます。ただしタマスが増えすぎると不活発さや無関心、無知に心がとらわれてしまいます。疲れがたまっていたり、寝不足で瞼を開けていられないくらいぼんやりとしてしまう時はタマスが高まり仕事の能率は下がります。頭はハッキリと働かず、どんなに頑張っても曇りガラスの向こうにあるものを見ようとしているようなもどかしさがあります。 日常生活の中で、タマスを増やすような行動はなるべく避けます。例えば熱が無く新鮮さを欠く食べ物、痛んでいたり、調理してから時間が経っていたり、腐敗したものはタマスが多くなっている食べ物です。散らかっていたりダラダラとした空間や時間、投げやりで不注意な言葉や行動はタマスを増やします。
注意したいのはラジャスの例と同様に、本来であればサットヴァな行為である瞑想や祈り、身体の鍛錬も、自分の身体を慈しまずに他人に迷惑をかけるようなやり方で行うのであればそれはタマスを増やします。寄付やボランティアを自分勝手な押し付けで行なった場合はどうでしょうか?つまりどんなに良いこともTPOが最適でなければ見栄やエゴが動機となった独りよがりな、タマスな行動となり得ます。相手のため、と言いつつも実は自分の優越感のため。見返りを期待した行動は、求めるものを返してもらえなかった時にじめじめとした陰湿な心の質を生みだしてしまいます。
タマスに心を縛られないようにするには、自分自身を大切にして必要なものを必要なだけ持つ、つまり足るを知ることを心掛けるようにします。いつも自分の身の回りの空間や時間を清潔に保ち、穏やかで清々しい呼吸が滞りなく入れ替わるようにします。水まわりの清潔を保つことが良い運の流れを招くことなどもこの一つと考えるとわかりやすいかも知れませんね。
サットヴァが増えるように心掛けると、和顔愛語が自然と身につくようになります。物や人に対し、おだやかな顔つきや、やわらかな言葉を掛けることが自然とできるようになります。単に愛想を振りまくことではありません。
仏教における『無財の七施』をご存知でしょうか?
お布施には財施、法施、無畏施の三種類があります。
財施は字の如く、財のお布施。貪る心、欲しがる心、恩にきせる心を離れて、お金や衣食などを必要とする人に与えることです。法施は知恵を使うお布施。法話などで相手の心に安らぎを与えること。精神面で尽くすこと。無畏施は恐れおののき、怖いと思う心の不安を取り除いて、安心させること。自分自身の心がしっかりしていないと難しいお布施ですね。
これらのうちどれも出来ないという人にも「七つの施しが出来る」とお釈迦様は説きます。七つのお布施とは以下の通りです。
一、眼施(慈眼施)
人やものに対して慈しみの眼、やさしい目で接すること。
二、和顔施(和顔悦色施)
人にはいつでもおだやかな顔つきで対すること。
三、愛語施(言辞施)
思いやりのあるやさしい言葉と態度を使うこと。怒るのではなく、愛情を込めて厳しく叱る。
四、身施(捨身施)
自分の身体を使う。他人が嫌がる仕事も気持ちよく率先する。模範的な行動を示す。
五、心施(心慮施)
自分以外のものに心を向けて寄り添い、心の底から共に喜怒哀楽を感じること。
六、壮座施
自らの席を譲ること。席とは社会的地位や境遇。自分の居心地の良い場所を相手のために手離し悔いないでいられること。
七、房舎施
雨や風をしのぐ所を与えること。
自分が滝行の如く濡れそぼっても相手に雨のかからないようにしてやること。つまり相手を思いやる心のある行い。
日常生活に自分が喜んで続けられそうなものがあれば、是非実践してみて下さいね。
最後にピラティスにおける心の質のことについて書きたいと思います。
ピラティスを続けることによって身体に得られる効果は言わずもがなですが、心にもたらす効果も様々にあります。
呼吸により身体組織を目覚めさせることによって得られる
・心の活性化
・集中力の向上
・自己認識力の向上
・自信の獲得
これらによって得られる
・意志力の強さ
・心の調和
・幸福感の高まり
ピラティス・ムーヴメントで正しく骨を動かし、筋肉の不要な力みを取り除いてやわらかく動かすことを継続していくと、どのような体勢でも最適な姿勢を保持できるように自分自身の身体を導けるようになります。身体の安定は心の状態の反映とも言えます。
また骨の配列は内臓を正常な位置へと納め、代謝機能を良好に保ちます。このように身体と心は切り離せるものではなく、互いに作用し合っています。
私はアーユルヴェーダもピラティスも、誰もが日常の中で無理なくいつでも始めて続けていくことのできるものだと思っています。特にその哲学や真理の部分を深めていくことは生命力を強くしてくれるものだと思いますが、誰もが皆同じように自然(もしくは万物や大宇宙)に生かされていることを知り、そのリズムや摂理に自らを調和して生きることを積極的に実践する心の在り方を持てるわけではありません。今すぐに始められることは、自分一人で生きているのではないと知ることで周りの物事や人に対して無償の慈愛を持って接することです。そのためにはまず自分の心身が健やかであることが土台となります。日常生活が心のお稽古です。
焦らず、諦めず、愛情深く、毎日をていねいに重ねて参りましょう。
読者のみなさまに感謝。
ではまた来年。良いお年をお迎え下さいね。
PROFILE : Ginger(じんじゃ~)アーティスト
マットピラティス/TYE4®指導者
アーユルヴェーダ セルフケアアドヴァイザー
英国にて衣装デザイン/制作を学び、デザイナーとして様々な身体表現者たちと関わる中で心身の不一致を感じ、そのコントロールへの興味を深める。
帰国後、ピラティスに出会い指導者に。アーユルヴェーダや東洋医学、薬膳の智慧を取り入れ、老若男女、プロの役者、ダンサー、武道家など幅広く指導。
個々人自らが『感じる力』を磨くことを何よりも重要視している。
英語でのレッスンや海外講師の通訳、人体経絡図の挿絵など、ピラティスと英語・アートをリンクさせた活動も積極的に展開している。
近年はピラティスという分野を超えて『今、自分自身が発する呼吸(言葉)と想い、そして行動がすべて気持ちよく一致しているか』を大切に指導を展開中。
Instagram: @ginger_jinjya
ピラティス指導者のGingerです。
明け方の空気がキリリと澄んで、黎明の神秘さの増す時候となりました。
先日の満月はとても地球に近かったため、眩しいほどの光を放つ十四夜には期待を募らせたのですが、翌日は夕刻より雨が振り出し満月は闇の中でした。
明け方。仄暗い街へ出ると黄金色のお月さまが沈み切らず、紺碧の天空の低いところでいざよい、夜の残る街を静かに照らしておられました。駅へ向かう私に『いってらっしゃい』と微笑んで下さっているかのように思えて安心しました。息をのむほどの神々しさに、嬉しくて私もにっこり。振り向けばほのぼのと明けゆく空が次第に白み、高い建物の黒々とした陰の合間に茜、朱、橙、桃、紫、藍と色が重なり混ざり合い、見ている間に一つのあかるい光にまとまり、世界は碧から蒼となり、先ほどの美しいドラマなどまるで無かったかのような顔をして朝が始まりました。
空の色はひと時も同じ色にとどまりません。濃さや薄さも含めて雲や光によっても見え方が変わります。
私たちの心や身体も一定状態にとどまることなく、自然の大きなリズムの中でゆらぎ、日々新たに生まれ変わり続けているように思います。
変わり続けるものの中で、自分が落ち着いてまっすぐに信じる道を歩めている時は、心が良い状態にあるのではないでしょうか?『健康』とは、身体のことだけではなく心の在り方が深く影響をあたえるものです。
今回のコラムは、いつもようにアーユルヴェーダの智慧をお借りして、心の質について書きたいと思います。もちろん、ピラティスのことも。
どうぞ、あたたかい飲み物とほっとする甘いものを用意して、のんびりと読み進めて下さいね。
アーユルヴェーダの智慧は人の身体や心を超えて、魂の根源を大宇宙から俯瞰するような広大さがあります。与えられた身体が自分のすべてではなく、もっと広い視野を持つことで生命の源、たった一つの真実を認めていくことを促します。そのため初めてその医哲学に出会う人は、アーユルヴェーダの奥深さに驚いたり、途方もないものに感じてしまうかもしれません。
しかしながら五千年も前から脈々と医聖たちによって受け継がれてきた叡智だからこそ、誰もが小さな習慣から始められる心の使い方があります。
アーユルヴェーダは自分一人だけの幸福など勧めていません。富も名誉も与えられた人にこそ奉仕と陰徳を促します。人は一人一人与えられた課題が違いますから、今の自分を他人と比べることは無意味です。まずは自分の欲することを知り、今行なっていることが自分の望むものを叶える為に最適な行動かを見極めます。その見極めをするための様々な方法をアーユルヴェーダは教えてくれています。
これはまさに今回のコラムのテーマなのですが、今の自分が心地よいと感じる行動が取れている時は、身体と心の両方が一致している時と言えます。
本来はひとつである身体と心ですが、現代社会ではもちろんのことアーユルヴェーダの聖典が書かれた五千年前から身体と心の不一致は人の健康を左右すると考えられてきました。コラムの第1回目で詳しく書きましたが、アーユルヴェーダでは『思い、言葉、行動』の三つが一致していないことは病気の原因になると考えます。現代社会のようなストレスの無さそうな五千年前ですら人は自分の思いとは別のことを口にしたり、言葉とは全く違うことを行ったりして病の原因を作っていたんですね。では『言葉、行動』を司る身体と、『思い』を司る心について考えてみましょう。
まず身体ですが、アーユルヴェーダでは人の身体は自然界と同じ空風火水地の五元素で構成されると考え、その五つの要素で構成されるヴァータ、ピッタ、カファの三つのドーシャ(トリドーシャ)が身体の中に存在するとしています。このトリドーシャのバランスでその人の体質や健康状態を診断し、そのバランスを整えることで治療を行います。生まれ持ったトリドーシャバランスは人それぞれ違うので、その人にとって生まれた時のトリドーシャバランスに最も近い状態がその人にとってベストであるとされます。
では、一年を通じて風邪ひとつひかず、アレルギーも無く、怪我も無く、つまり肉体が丈夫であればその人は健康と言えるのでしょうか?それは、前述したように心の状態を無視しているため、判断基準としては不十分と言えるでしょう。
身体の健康を左右するトリドーシャとは別に、心を左右するメンタルドーシャ(ラジャス、タマス)というものがあります。アーユルヴェーダではこの二つのメンタルドーシャのバランスも大切であるとしています。コラム第7回でも書きましたが、その人が『健康』かどうかを判断する際に、心が穏やかで満たされているかどうかは現代医学においても重視されています。
アーユルヴェーダでは心の質にはサットヴァ、ラジャス、タマスの三つがあると考えます。これらはトリグナ(三つの性質)と呼ばれています。サットヴァは純質、ラジャスは檄質、タマスは鈍質と呼ぶことができます。例えばサットヴァは透明で広がりがあり、静かにすべてを輝かせる空間や光。ラジャスは風や火。とどまることなく流れ、熱さと冷たさを持ちます。タマスは土や石。長い間同じ状態を保ち、光や熱も通しません。 トリドーシャで言えば空と風の要素を持つヴァータや火と水の要素を持つピッタはラジャスが多くなると大きくなり、逆もまた然りです。また同様の法則で、タマスが増えると水と地の要素を持つカファが強くなります。サットヴァが増えるとこでトリドーシャは均衡を得て鎮まります。
心の不安定はラジャスとタマスが悪増した時に起こります。
ではサットヴァのみを高めるように心身を養生すれば良いのかというと、そうではないのです。全ては調和です。
ラジャスはラーガ(偏愛)、つまり何かをとても好きで、その感情が過剰になり偏って執着を生み「もっと欲しい」という物質的な欲望に人を駆り立てます。ラジャスに心が支配されてしまうと、人間が本来持つ冷静さは失われ、身体も落ち着かず調和とは遠く離れてしまいます。
しかしラジャスがなければ私たちは何か目標に向かって努力をするという活発さも得られず、腰を上げて行動を起こすことも難しくなります。例えばお休みの日になるといつまでもお布団の中でダラダラと携帯電話をいじって過ごしてしまいがちな人はラジャスが必要ですね。逆に仕事に趣味に勉強にと、いつもめまぐるしく動いて心も身体も忙しくしている人はラジャスが高まりすぎてしまいがちです。
ラジャスそのものが良くないのではなく、心の鍛錬によってラジャスに心を支配をされないようになることが必要です。気をつけることは、寄付や祈りや瞑想、もちろん私たちが実践するヨガやピラティスも、見た目の行動としてどんなにポジティブなものであってもその行動の動機が人からすごいと思われたい、感謝されたいというエゴや自分のプライドを満足させるためだけのものだとしたら、行動による結果に執着をして心は落ち着かず、焦り、結果的に自分自身を傷つけます。他人と自分を比較して、ものごとを優劣でしか判断できなくなっている時は純質の心、サットヴァを高めてラジャスを克服しましょう。もちろん優劣をつけること自体は悪いことではありません。より良いものを求める気持ちが自己鍛錬につながります。ポイントは、執着をしないことです。良いことも悪いことも潔く手放すことで次の段階への成長につなげます。
タマスは身体を休めるエネルギーです。タマスが増えるから人は休むことができます。ただしタマスが増えすぎると不活発さや無関心、無知に心がとらわれてしまいます。疲れがたまっていたり、寝不足で瞼を開けていられないくらいぼんやりとしてしまう時はタマスが高まり仕事の能率は下がります。頭はハッキリと働かず、どんなに頑張っても曇りガラスの向こうにあるものを見ようとしているようなもどかしさがあります。 日常生活の中で、タマスを増やすような行動はなるべく避けます。例えば熱が無く新鮮さを欠く食べ物、痛んでいたり、調理してから時間が経っていたり、腐敗したものはタマスが多くなっている食べ物です。散らかっていたりダラダラとした空間や時間、投げやりで不注意な言葉や行動はタマスを増やします。
注意したいのはラジャスの例と同様に、本来であればサットヴァな行為である瞑想や祈り、身体の鍛錬も、自分の身体を慈しまずに他人に迷惑をかけるようなやり方で行うのであればそれはタマスを増やします。寄付やボランティアを自分勝手な押し付けで行なった場合はどうでしょうか?つまりどんなに良いこともTPOが最適でなければ見栄やエゴが動機となった独りよがりな、タマスな行動となり得ます。相手のため、と言いつつも実は自分の優越感のため。見返りを期待した行動は、求めるものを返してもらえなかった時にじめじめとした陰湿な心の質を生みだしてしまいます。
タマスに心を縛られないようにするには、自分自身を大切にして必要なものを必要なだけ持つ、つまり足るを知ることを心掛けるようにします。いつも自分の身の回りの空間や時間を清潔に保ち、穏やかで清々しい呼吸が滞りなく入れ替わるようにします。水まわりの清潔を保つことが良い運の流れを招くことなどもこの一つと考えるとわかりやすいかも知れませんね。
サットヴァが増えるように心掛けると、和顔愛語が自然と身につくようになります。物や人に対し、おだやかな顔つきや、やわらかな言葉を掛けることが自然とできるようになります。単に愛想を振りまくことではありません。
仏教における『無財の七施』をご存知でしょうか?
お布施には財施、法施、無畏施の三種類があります。
財施は字の如く、財のお布施。貪る心、欲しがる心、恩にきせる心を離れて、お金や衣食などを必要とする人に与えることです。法施は知恵を使うお布施。法話などで相手の心に安らぎを与えること。精神面で尽くすこと。無畏施は恐れおののき、怖いと思う心の不安を取り除いて、安心させること。自分自身の心がしっかりしていないと難しいお布施ですね。
これらのうちどれも出来ないという人にも「七つの施しが出来る」とお釈迦様は説きます。七つのお布施とは以下の通りです。
一、眼施(慈眼施)
人やものに対して慈しみの眼、やさしい目で接すること。
二、和顔施(和顔悦色施)
人にはいつでもおだやかな顔つきで対すること。
三、愛語施(言辞施)
思いやりのあるやさしい言葉と態度を使うこと。怒るのではなく、愛情を込めて厳しく叱る。
四、身施(捨身施)
自分の身体を使う。他人が嫌がる仕事も気持ちよく率先する。模範的な行動を示す。
五、心施(心慮施)
自分以外のものに心を向けて寄り添い、心の底から共に喜怒哀楽を感じること。
六、壮座施
自らの席を譲ること。席とは社会的地位や境遇。自分の居心地の良い場所を相手のために手離し悔いないでいられること。
七、房舎施
雨や風をしのぐ所を与えること。
自分が滝行の如く濡れそぼっても相手に雨のかからないようにしてやること。つまり相手を思いやる心のある行い。
日常生活に自分が喜んで続けられそうなものがあれば、是非実践してみて下さいね。
最後にピラティスにおける心の質のことについて書きたいと思います。
ピラティスを続けることによって身体に得られる効果は言わずもがなですが、心にもたらす効果も様々にあります。
呼吸により身体組織を目覚めさせることによって得られる
・心の活性化
・集中力の向上
・自己認識力の向上
・自信の獲得
これらによって得られる
・意志力の強さ
・心の調和
・幸福感の高まり
ピラティス・ムーヴメントで正しく骨を動かし、筋肉の不要な力みを取り除いてやわらかく動かすことを継続していくと、どのような体勢でも最適な姿勢を保持できるように自分自身の身体を導けるようになります。身体の安定は心の状態の反映とも言えます。
また骨の配列は内臓を正常な位置へと納め、代謝機能を良好に保ちます。このように身体と心は切り離せるものではなく、互いに作用し合っています。
私はアーユルヴェーダもピラティスも、誰もが日常の中で無理なくいつでも始めて続けていくことのできるものだと思っています。特にその哲学や真理の部分を深めていくことは生命力を強くしてくれるものだと思いますが、誰もが皆同じように自然(もしくは万物や大宇宙)に生かされていることを知り、そのリズムや摂理に自らを調和して生きることを積極的に実践する心の在り方を持てるわけではありません。今すぐに始められることは、自分一人で生きているのではないと知ることで周りの物事や人に対して無償の慈愛を持って接することです。そのためにはまず自分の心身が健やかであることが土台となります。日常生活が心のお稽古です。
焦らず、諦めず、愛情深く、毎日をていねいに重ねて参りましょう。
読者のみなさまに感謝。
ではまた来年。良いお年をお迎え下さいね。
PROFILE : Ginger(じんじゃ~)