第1回 「選択」
はじめまして。
ピラティス指導者のGinger(じんじゃ~)と申します。
今月からピラティスにまつわるコラムを書かせていただくこととなりました。
毎月一回、新月の日に更新してまいりますのでどうぞよろしくお願いいたします。
私はアーユルヴェーダのセルフケアアドヴァイザーの資格を持っており、薬膳・漢方、リンパケアなどの知識をピラティスレッスンの中に取り入れて、身体のケア方法のヒントなどをお伝えしています。
ピラティス指導者になる前はイギリスで衣装デザインと製作のお仕事をしていました。今はアートのお仕事を主軸にはしておりませんが、私にとって生きることそれ自体がアートであり、身体はその人が生きてきた足跡で出来た地図のようなものだと私は考えています。
身体をよく観察すると、その人の生き方が見えてきます。
そのため私にとってピラティスは、常に自分自身の心や身体の変化と向き合うことをより楽しくさせてくれるアートであると思っています。
ご存知の方もおられるでしょうが、「ピラティス」という名前は、その考案者であるJoseph Hubertus Pilates(ジョセフ・ヒューバタス・ピラティス)氏の名前から取られたもので、ピラティス氏はもともと彼の考案したメソッドを「アート・オブ・コントロロジー(コントロールの芸術)」と呼んでいました。
この場合のコントロール、とは制御ではなく、流動的に変わる「今の自分にとって必要なものとそうでないもの」を見極めていく力のことだと私は思います。
具体的にピラティスのムーブメントで言えば、使うべき箇所(ターゲットの筋肉)を使い、余計な力みや、使うことが得意な箇所ばかりを優先的に使う癖を取る、といったところでしょうか。
ピラティスの様々な動き、いわゆるエクササイズは目的の箇所を使わずに行うこともできます。見た目にはエクササイズをキレイに行っているように見える、もしくは本人ができていると勘違いする場合が多いのですが、ターゲットの筋肉以外を使ってエクササイズを行った場合、残念ながら望む結果は得られないか、もしくはそれを得るまでに時間がかかるかもしれません。
自分に必要なものを瞬時に見極めて、不要なものを手放し、優雅に身体を使っていく方法を身につける。これは深めていけば「中庸」を取ることとも似ているかもしれません。
なんだかアートではないですか?(笑)
少々抽象的な表現になりますが、ピラティスを継続していくと、変わるのは身体よりもまず心なのだと思います。
私はその心の変化の部分を大切にしてレッスンをさせて頂いております。
ここまでお読みいただいてもうお気づきでしょうが、私は思いっきり文系の人間です。
いわゆるアウターのツライ筋肉トレーニングも走り込みも一切やらないんです。
だって、ツカレルことは嫌なんだもの。(笑)
ピラティス指導者という立場上、やったほうが良いのかもしれませんが、どうにも心が動かないことにはできません。
お赦し下さい。
前置きが長くなりましたね。
さて、今回は私が度々お客様に頂くご質問で圧倒的に多いのが「何年くらいピラティスをしているんですか?」と「なぜピラティスを選んだんですか?」です。
私は2012年にピラティスに出会いました。これについてはまた別に機会を設けさせて頂くとして、今回は後者の質問について考えてみました。これは私がお客様にする質問でもあるからです。
これほど多くの情報やモノが溢れる世の中で、なぜピラティスを選んだのか。
その理由は人それぞれでしょう。
というわけで、コラムの第一回目のテーマは「選択」です。
PROFILE : Ginger(じんじゃ~)アーティスト
マットピラティス/TYE4®指導者
アーユルヴェーダ セルフケアアドヴァイザー
英国にて衣装デザイン/制作を学び、デザイナーとして様々な身体表現者たちと関わる中で心身の不一致を感じ、そのコントロールへの興味を深める。
帰国後、ピラティスに出会い指導者に。アーユルヴェーダや東洋医学、薬膳の智慧を取り入れ、老若男女、プロの役者、ダンサー、武道家など幅広く指導。
個々人自らが『感じる力』を磨くことを何よりも重要視している。
英語でのレッスンや海外講師の通訳、人体経絡図の挿絵など、ピラティスと英語・アートをリンクさせた活動も積極的に展開している。
近年はピラティスという分野を超えて『今、自分自身が発する呼吸(言葉)と想い、そして行動がすべて気持ちよく一致しているか』を大切に指導を展開中。
Instagram: @ginger_jinjya
私たちは日々生活をするなかで、様々な選択をしています。 例えば一日の始まりだけでも、起床時刻、朝の過ごし方、衣食住にまつわる様々の事柄は多くの選択肢に溢れています。 選ぶ、という行為は私たちの五感、そして多くの場合は六感を使って無意識に行っています。直感、インスピレーション、好み、と呼ぶこともできるでしょう。 つまり、自分が心地よく感じるもの、好きなもの、その時々で最適なものを選ぶことが自分自身を喜ばせます。 ハッピーな自分がいることで、周囲にもハッピーが伝染しますから、この「自分の感覚に素直になる」ということは生きていく上で大変重要です。 私たちは、無意識レヴェルで、今の自分にとって何が必要なことなのかを知っています。 しかし、様々な状況が「自分にとって最適」な選択肢を取らせないことはよくあります。 つまり本来は自分軸である「選択」が、自分軸がブレたり、他者の軸を意識することなどによって変わってしまうということです。 その場合、心と行動、想いは一致せずに苦しい状態にあります。 「あんなこと、言わなければよかった…。」と後悔する。 「本当はやりたくないけど、仕方ないよね。」と諦める。 「(本当は辛いのに)大丈夫!」と自分に言い聞かせる、など。 太古から、人は本音とタエマエの狭間で苦しんできました。 「わかっちゃいるけどやめられない」は積み重なれば、いずれ程度の幅はあれどもアンハッピーな結果を導きます。 WHOにも認められているインド発祥の伝統医学であるアーユルヴェーダにおいて、病気は3種類あります。 1.内因性 (トリドーシャ=生まれ持った体質のバランス の乱れ) 2.外因性 (外傷・公害など) 3.心因性 (望んでいることが達成できない。望んでいることと違うことが手に入る) ここではアーユルヴェーダにまつわる専門用語の詳しい説明は割愛致しますが、アーユルヴェーダの歴史は古く、約5000年以上も前に経典が書かれています。 私が驚くのは、5000年も前から心の病気が存在し、病気と認識されており、そんなにも昔から、人は心と身体の不一致により病気になってきたということです。 そして、それらの病気の3つの原因は以下の通りです。 1.インドリヤ(五感)の誤用 (使いすぎ、使わなさすぎ、使い方の誤り) 2.思い、言葉、行動が一致していないとき 3.季節の異常 モノの少ない太古の時代から、人々が心と身体の不一致で病気になっていたのなら、まして、現代社会に生きる私たちはその傾向がとても強いのではないでしょうか? 心と身体の不一致は、現代の人々に顕著なものです。また、日本人は世界のなかでもとりわけ目が悪く、突発性難聴になる方も多く見られます。 ニホンジン、ガマンシスギダヨ。。。 仕事が忙しくて… 家事が大変で… 介護が… 様々な理由で、ピラティスやヨガのレッスンを受けに来たくても来られないというお客様がたくさんおられます。 やむをえない状況、というものはもちろん存在します。 その状況をジャッジすることはしませんが、ただ一つ私が言えることは「それが本当にやりたいことだったら、もうすでにやっている」ということです。 それは実際にレッスンを受けに行くという行動でなくても、通えそうなスタジオを探したり、本やDVDで少しずつ始めてみたり、食生活に気をつけてみたり、通勤手段を変えてみたり、など何かしらと自分でも気づかないうちに下準備や意識改革が始まっているはずです。 私はピラティスに出会って「これだ!」とピーンとくるものがありましたから、本気でピラティスと向き合いたかったので、週に一回無理を言って仕事を半日休ませてもらっていました。クビになってもいいや、くらいの気持ちでしたが、ありがたいことにクビにはならず、むしろ応援されました。 その頃は複数の仕事を掛け持ちしていたので、毎日朝から夜中まで働きつつ週一回のレッスンに通い、試験勉強をし、とにかくできることは全て行なっていました。 思い返してみれば、目まぐるしい日々の中、やると決めたことを続けることで心の平静を保っていたのだと思います。 もちろんピラティスというものが私に合っているという確証もありましたから、なおのこと余力を残さずに突っ走ることが出来たのでしょう。 何事も、不安や疑念があると全力を尽くせないものです。 今自分の置かれた状況の中で、何を選択するのか。 自分自身をしっかりと俯瞰できれば選択肢が見えてくるはずです。 そこから「希望」や「理想」を尊重しつつ「最適な選択」をすることは時に辛いことかもしれませんが、自分の未来をつくるための選択は必ずしも毎回楽しいものではないこともあります。むしろ、最初のうちはちょっと大変な選択の方が多いくらいかもしれませんね。 抽象的な話はそろそろ終わりにしましょう。 実際にピラティスに於いて「選択」とは何か。 様々なピラティスの動き(ピラティスムーブメント)を通じて身体を動かしていれば、個人差はあれ次第に身体が変わっていくでしょう。 どのムーブメントを行うかは、プライベートレッスンであれば指導者がきちんと最適なものを選んでくれるはずです。この際に指導者のスキルは当然大事ですが、もっと大事なのはその指導者との相性です。 グループレッスンであれば、毎回必ず自分のやってほしいムーブメントが出てくるとは限りませんが、グループを指導する場合も、経験を積んだ指導者であれば型通りのレッスンではなく、参加者たちの身体の状態からレッスンプランをその場で柔軟に変えてくれるはずです。この場合も、もちろん指導者との相性は大事なことです。 ここで言う相性というのは、その指導者の個人的な性格と合うかではなく、その指導者がどのようなテーマでレッスンの指導を行っているのか、その指導者のレッスンに対する信念に共感できるかどうかということです。 個人的にお喋りをして、心地よく思える指導者のレッスンが、必ずしも「今の自分」に合うかどうかは、身体と心の成長段階によって変わります。 たくさんのレッスンが提供されているスタジオであれば、可能な限り多様な指導者のレッスンを受けてみて下さい。 私がこうも強くこれを言うのは、どんなに優れたメソッドであっても、それを行う者が身体でこれらを理解する以前に、心で納得しないと身体の動きがどこかぎくしゃくしてしまうものだからです。 いくら他人から薦められたとしても、自分自身が心から納得していないと続かないし、例え続けることが出来たとしてもそれが推薦者への義理であれば、それは自分の軸をぶれさせてしまいます。指導者というのは、あくまで方法を教えるだけであって、実行するのはあなたです。あなたの身体も心もあなたにしか変えられません。自分の心にきちんと耳を傾けましょう。たくさんのレッスンを受けてみることで、様々な感想を持つことでしょう。それによって自分自身の求めるものが立体的になっていきます。 最後に、ピラティスにおいて最大の選択は何か。 私は、それは「呼吸」ではないかと考えます。 レッスンを指導させていただく中で、お客様から「呼吸がわからない」というお声をよく頂きます。 腹式呼吸や胸式呼吸、どちらにすればいいのか。 いつ吸っていつ吐くのか。 鼻から吸うのか。吸った息は、鼻から吐くのか口から吐くのか。 お客様たちが呼吸に関して様々な疑問を持っておらることに、驚きます。 みなさん真面目すぎやしませんか?(笑) 初めて行うムーブメントで、呼吸が乱れることなんて、当たり前ではないでしょうか? 呼吸の乱れが起こる原因はただ一つ、「頭で考えて動いているから」です。 ピラティスをするにしても他のどんなエクササイズをするにしても、「考えるな!感じろ!」が合言葉です。 ムーブメントがうまくできない時に自分を責めることもナンセンスです。 むしろ質問が出るくらい、呼吸を気にしておられること自体が素晴らしいと思います。 ピラティスにおける呼吸については、また別の機会に詳しく書かせていただくとして、私の個人的見解を率直に述べるのであれば、「とにかく呼吸を止めないこと」そして「自分の為の呼吸であることを忘れない」。この二つを大事にして頂きたいです。 呼吸を身体の動きに合わせるのではなく、呼吸が身体を自然に導く感覚を尊重していけたらいいですね。 呼吸のリズムは鼓動のリズム。 春の土用に入った今、身体の中では肝臓から心臓へと元気のバトンタッチが行われる頃です。 他者を尊重していけるように、まずは自分の軸を真っ直ぐ、しなやかに。 呼吸で自分自身の心が果てのない天と地に大きく広がるイメージを持ってみましょう。 身体という容れ物にとらわれすぎず、自分自身の心地よい場所へ心を置いてみましょう。 呼吸が最大の選択、もしかしたらこれはピラティスにおいてのみではないかもしれません。生きることそれ自体において、最大の選択は呼吸。 私はそんな風に思っています。 何をするかよりも、自分が楽しんでいるかどうか。 大好きな人といるときのように、やさしい呼吸が自然と続く。 私たち一人一人がそうなれるものを人生の様々な段階で見つけて、その時々で自分にとって最適なものを選んでいけたらいいですね。 みなさま素敵な晩春を。
PROFILE : Ginger(じんじゃ~)
私たちは日々生活をするなかで、様々な選択をしています。 例えば一日の始まりだけでも、起床時刻、朝の過ごし方、衣食住にまつわる様々の事柄は多くの選択肢に溢れています。 選ぶ、という行為は私たちの五感、そして多くの場合は六感を使って無意識に行っています。直感、インスピレーション、好み、と呼ぶこともできるでしょう。 つまり、自分が心地よく感じるもの、好きなもの、その時々で最適なものを選ぶことが自分自身を喜ばせます。 ハッピーな自分がいることで、周囲にもハッピーが伝染しますから、この「自分の感覚に素直になる」ということは生きていく上で大変重要です。 私たちは、無意識レヴェルで、今の自分にとって何が必要なことなのかを知っています。 しかし、様々な状況が「自分にとって最適」な選択肢を取らせないことはよくあります。 つまり本来は自分軸である「選択」が、自分軸がブレたり、他者の軸を意識することなどによって変わってしまうということです。 その場合、心と行動、想いは一致せずに苦しい状態にあります。 「あんなこと、言わなければよかった…。」と後悔する。 「本当はやりたくないけど、仕方ないよね。」と諦める。 「(本当は辛いのに)大丈夫!」と自分に言い聞かせる、など。 太古から、人は本音とタエマエの狭間で苦しんできました。 「わかっちゃいるけどやめられない」は積み重なれば、いずれ程度の幅はあれどもアンハッピーな結果を導きます。 WHOにも認められているインド発祥の伝統医学であるアーユルヴェーダにおいて、病気は3種類あります。 1.内因性 (トリドーシャ=生まれ持った体質のバランス の乱れ) 2.外因性 (外傷・公害など) 3.心因性 (望んでいることが達成できない。望んでいることと違うことが手に入る) ここではアーユルヴェーダにまつわる専門用語の詳しい説明は割愛致しますが、アーユルヴェーダの歴史は古く、約5000年以上も前に経典が書かれています。 私が驚くのは、5000年も前から心の病気が存在し、病気と認識されており、そんなにも昔から、人は心と身体の不一致により病気になってきたということです。 そして、それらの病気の3つの原因は以下の通りです。 1.インドリヤ(五感)の誤用 (使いすぎ、使わなさすぎ、使い方の誤り) 2.思い、言葉、行動が一致していないとき 3.季節の異常 モノの少ない太古の時代から、人々が心と身体の不一致で病気になっていたのなら、まして、現代社会に生きる私たちはその傾向がとても強いのではないでしょうか? 心と身体の不一致は、現代の人々に顕著なものです。また、日本人は世界のなかでもとりわけ目が悪く、突発性難聴になる方も多く見られます。 ニホンジン、ガマンシスギダヨ。。。 仕事が忙しくて… 家事が大変で… 介護が… 様々な理由で、ピラティスやヨガのレッスンを受けに来たくても来られないというお客様がたくさんおられます。 やむをえない状況、というものはもちろん存在します。 その状況をジャッジすることはしませんが、ただ一つ私が言えることは「それが本当にやりたいことだったら、もうすでにやっている」ということです。 それは実際にレッスンを受けに行くという行動でなくても、通えそうなスタジオを探したり、本やDVDで少しずつ始めてみたり、食生活に気をつけてみたり、通勤手段を変えてみたり、など何かしらと自分でも気づかないうちに下準備や意識改革が始まっているはずです。 私はピラティスに出会って「これだ!」とピーンとくるものがありましたから、本気でピラティスと向き合いたかったので、週に一回無理を言って仕事を半日休ませてもらっていました。クビになってもいいや、くらいの気持ちでしたが、ありがたいことにクビにはならず、むしろ応援されました。 その頃は複数の仕事を掛け持ちしていたので、毎日朝から夜中まで働きつつ週一回のレッスンに通い、試験勉強をし、とにかくできることは全て行なっていました。 思い返してみれば、目まぐるしい日々の中、やると決めたことを続けることで心の平静を保っていたのだと思います。 もちろんピラティスというものが私に合っているという確証もありましたから、なおのこと余力を残さずに突っ走ることが出来たのでしょう。 何事も、不安や疑念があると全力を尽くせないものです。 今自分の置かれた状況の中で、何を選択するのか。 自分自身をしっかりと俯瞰できれば選択肢が見えてくるはずです。 そこから「希望」や「理想」を尊重しつつ「最適な選択」をすることは時に辛いことかもしれませんが、自分の未来をつくるための選択は必ずしも毎回楽しいものではないこともあります。むしろ、最初のうちはちょっと大変な選択の方が多いくらいかもしれませんね。 抽象的な話はそろそろ終わりにしましょう。 実際にピラティスに於いて「選択」とは何か。 様々なピラティスの動き(ピラティスムーブメント)を通じて身体を動かしていれば、個人差はあれ次第に身体が変わっていくでしょう。 どのムーブメントを行うかは、プライベートレッスンであれば指導者がきちんと最適なものを選んでくれるはずです。この際に指導者のスキルは当然大事ですが、もっと大事なのはその指導者との相性です。 グループレッスンであれば、毎回必ず自分のやってほしいムーブメントが出てくるとは限りませんが、グループを指導する場合も、経験を積んだ指導者であれば型通りのレッスンではなく、参加者たちの身体の状態からレッスンプランをその場で柔軟に変えてくれるはずです。この場合も、もちろん指導者との相性は大事なことです。 ここで言う相性というのは、その指導者の個人的な性格と合うかではなく、その指導者がどのようなテーマでレッスンの指導を行っているのか、その指導者のレッスンに対する信念に共感できるかどうかということです。 個人的にお喋りをして、心地よく思える指導者のレッスンが、必ずしも「今の自分」に合うかどうかは、身体と心の成長段階によって変わります。 たくさんのレッスンが提供されているスタジオであれば、可能な限り多様な指導者のレッスンを受けてみて下さい。 私がこうも強くこれを言うのは、どんなに優れたメソッドであっても、それを行う者が身体でこれらを理解する以前に、心で納得しないと身体の動きがどこかぎくしゃくしてしまうものだからです。 いくら他人から薦められたとしても、自分自身が心から納得していないと続かないし、例え続けることが出来たとしてもそれが推薦者への義理であれば、それは自分の軸をぶれさせてしまいます。指導者というのは、あくまで方法を教えるだけであって、実行するのはあなたです。あなたの身体も心もあなたにしか変えられません。自分の心にきちんと耳を傾けましょう。たくさんのレッスンを受けてみることで、様々な感想を持つことでしょう。それによって自分自身の求めるものが立体的になっていきます。 最後に、ピラティスにおいて最大の選択は何か。 私は、それは「呼吸」ではないかと考えます。 レッスンを指導させていただく中で、お客様から「呼吸がわからない」というお声をよく頂きます。 腹式呼吸や胸式呼吸、どちらにすればいいのか。 いつ吸っていつ吐くのか。 鼻から吸うのか。吸った息は、鼻から吐くのか口から吐くのか。 お客様たちが呼吸に関して様々な疑問を持っておらることに、驚きます。 みなさん真面目すぎやしませんか?(笑) 初めて行うムーブメントで、呼吸が乱れることなんて、当たり前ではないでしょうか? 呼吸の乱れが起こる原因はただ一つ、「頭で考えて動いているから」です。 ピラティスをするにしても他のどんなエクササイズをするにしても、「考えるな!感じろ!」が合言葉です。 ムーブメントがうまくできない時に自分を責めることもナンセンスです。 むしろ質問が出るくらい、呼吸を気にしておられること自体が素晴らしいと思います。 ピラティスにおける呼吸については、また別の機会に詳しく書かせていただくとして、私の個人的見解を率直に述べるのであれば、「とにかく呼吸を止めないこと」そして「自分の為の呼吸であることを忘れない」。この二つを大事にして頂きたいです。 呼吸を身体の動きに合わせるのではなく、呼吸が身体を自然に導く感覚を尊重していけたらいいですね。 呼吸のリズムは鼓動のリズム。 春の土用に入った今、身体の中では肝臓から心臓へと元気のバトンタッチが行われる頃です。 他者を尊重していけるように、まずは自分の軸を真っ直ぐ、しなやかに。 呼吸で自分自身の心が果てのない天と地に大きく広がるイメージを持ってみましょう。 身体という容れ物にとらわれすぎず、自分自身の心地よい場所へ心を置いてみましょう。 呼吸が最大の選択、もしかしたらこれはピラティスにおいてのみではないかもしれません。生きることそれ自体において、最大の選択は呼吸。 私はそんな風に思っています。 何をするかよりも、自分が楽しんでいるかどうか。 大好きな人といるときのように、やさしい呼吸が自然と続く。 私たち一人一人がそうなれるものを人生の様々な段階で見つけて、その時々で自分にとって最適なものを選んでいけたらいいですね。 みなさま素敵な晩春を。