第4回「継続」

第4回「継続」
みなさまごきげんいかがですか?
ピラティス指導者のGinger(じんじゃ~)です。

今月は新月ではなく、晦に更新をさせていただいております。
あら?と思ったあなた。なかなかやりますね。

夏土用に入り、季節は秋への準備をはじめますが、アーユルヴェーダによると夏は一年で最も消化力の落ちる季節ですから、旬を食卓に取り入れつつも腹八分目が良いでしょうね。
一番暑いこの時候は太陽の力をお借りして梅や薬草を干し、布類の虫干しもしましょう。干した薬草で薬草風呂に入り、さっぱりとした寝具で深い睡眠を。身体にこもった毒素や湿気(湿邪)を抜いて過ごしましょう。
私は天日干しした蓬の香りを嗅いだり、そのお茶を飲むと内臓がじわじわとあたたまり、毒が解され、ゆっくりと本来の力を取り戻して行くような感じがします。

新月から月の光は夜毎に増し、迎える八月八日の満月は末広がりをあらわす数字そのものもそうですが、部分月蝕も見られる特別な満月だとのことです。
でも、私にとってお月さまはいつ見上げても美しい存在です。
火照った身体は火のエネルギーを持つピッタが強くなっていますから、冷の性質を持つ月を愛でることで火の熱を鎮め、気持ちも和らげましょう。

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さて、みなさんが今行っているピラティスやヨガ。
始めたばかりの方も、もう長く続けているという方も、これまでのご自身の成長を楽しんで続けておられますでしょうか?
やりたく無いことや、やらされていることは先延ばしにしたり、嫌々にこなしたりと、なかなか身につくようには取り組めないものです。
例えば私の場合、夏休みの宿題という課題を前に、文系科目は楽しめましたが、算数のドリルや理科の宿題などはきちんとやり切れた記憶がありません。提出をしたかどうかも怪しいくらいです。殊勝にも算数のドリルを毎日三ページやると決めてみた夏もありましたが、国語は倍のページ数を難なくやれるのに、算数や理科、社会は苦戦しました。毎日やると決めたものの、結局数日分をまとめてこなしていたように思います。他にも縄跳びや九九の暗唱チェックシートなど、チェックを全て埋めた記憶が無いのです。逆に宿題でもなんでも無い図書館での本読みや自習ノートは言われなくもやっていました。
昔も今も、興味のあることには全く心が動かないのが私の性分のようです。理数系科目の宿題を提出したかどうかの記憶がないのは、おそらく興味の無い思い出なので頭のハードドライヴから削除したためでしょう。
と、いうことで今回は「継続」について書いてみようと思います。
image2 私がピラティスを始めたきっかけは、疲弊して分離した心身をなんとかしなければ、自分の表現をこれからも続けていくことができないと思ったからです。
アートの世界に居つつも、自分の身体をきちんとデザインする方法がわからなかったし、心のことはいくら表現を磨いても、生きるということへの不安や身体へのコンプレックスが拭いきれず、身体と同様にどうすれば心地よい方向へと導いていけるのかがわからなかったのですね。
五年前の私が抱えていた不安や心の弱い部分は、身体を整えることで少しずつ消え去り、本来のポジティブさが引き出されて行ったように思います。

よく「ポジティブな人」だとか「ネガティヴな人」だとか表現しますが、私は人はどちらの要素も持っているのだと思います。ポジティブ / ネガティヴは、性格ではなく性質だと思います。そしてそのどちらの性質をより多く使うかは、その人の心次第。ポジティブが過ぎれば謙虚さが欠けますし、ネガティヴが過ぎればまわりの人にまで暗い印象を伝染させてしまいます。なにごともバランスが肝要です。
ネガティヴが良くない性質なのではありません。ただ自分の中のネガティヴを「否定」ととらえるのではなく、自分の成長のために自らの行いに有頂天になることを防ぎ、適切に「評価」をできる心ととらえてみればいいかもしれませんね。
image1 日本語には「稽古」という言葉があります。
お稽古とは、ただの練習ではなく「古を稽える(いにしえをかんがえる)」ことだといいます。いにしえとは「往にし方」。過ぎ去った方とはつまり先人たちの教えや昨日の自分。かんがえる、の「稽」とはひき比べること。教えやお手本と自分のそれをきちんと比べてかんがえる。昨日の自分より何か成長したことはあるか、忘れていることはあるか、諦めていることはないか、できていないことの原因は何か…。
地道な努力の積み重ねは、かならずしも華やかなものではありませんし、目に見える結果も伴わないかもしれません。しかし日々誠実さや素直さをもってお稽古を重ねていれば、確実になにかしらの変化をもたらしてくれるはずです。
悠久の宇宙のリズムの中で変わらずに季節を繰り返しているように見える自然界でさえ、一日として同じ日はありません。その自然界のなかで生かされている人間は変化に富んで当然です。目標に向かって少しでも変わっていく自分を見つめ、評価することが未来の自分を変えていきます。
これは容易なことではもちろんありませんね。

中島敦著『環礁 ーミクロネシヤ巡島記抄ー』のうちの一編『寂しい島』のなかに宇宙の大きさを感じさせる一節があり、これを読んだ十五くらいのころの私はそこに描写された著者の五感に対して子供心に非常に浪漫を感じました。

汽船ふねは此の島を夜半に發つ。それ迄汐を待つのである。
私は甲板に出て欄干に凭つた。島の方角を見ると、闇の中に、ずつと低い所で、五つ六つの灯が微かにちらついて見える。空を仰いだ。ほばしら索綱つなの黒い影の上に遙か高く、南國の星座が美しく燃えてゐた。ふと、古代希臘ギリシアの或る神祕家の言つた「天體てんたいの妙なる諧音」のことが頭に浮かんだ。賢い其の古代人は斯う説いたのである。我々を取卷く天體の無數の星共は常に巨大な音響――それも、調和的な宇宙の構成にふさはしい極めて調和的な壯大な諧音――を立てて廻轉かいてんしつゝあるのだが、地上の我々は太初よりそれに慣れ、それの聞えない世界は經驗できないので、竟に其の妙なる宇宙の大合唱を意識しないでゐるのだ、と。先刻夕方の濱邊で島民共の死絶えた後の此の島を思ひ畫いたやうに、今、私は、人類の絶えて了つたあとの・誰も見る者も無い・暗い天體の整然たる運轉を――ピタゴラスの云ふ・巨大な音響を發しつつ廻轉する無數の球體共の樣子を想像して見た。
何か、荒々しい悲しみに似たものが、ふっと、心の底から湧上って来るようであった。』
(『環礁 ーミクロネシヤ巡島記抄ー』中島敦)
image6 風や花や潮の香りが強い熱帯の島。剥き出しの自然。
私たちの細胞に記憶された太古の自然。
天道説の世界。私は金銀砂子の星々が撒かれた天板が回転するのを、幾千もの音符がうたれた巨大なオルゴールの板がゆったりと回転し荘厳に楽を奏でるさまに連想してしまうのです。異なる音が複雑に重なり、響き合い、和音を生み出す。
調和。
私たち人間が生まれる前も後も絶ゆることなく壮大に回転する宇宙。生命という奇跡。
それでも人は慣れという刺激の緩和によっていかに気高いものも日常に溶かしてしまう。それはとても哀しいことです。

偉大な仕事であればあるほど普遍性を持ち、不自然さは影をひそめ、エレガントに成されるが故に当たり前のように消費されてしまう。優れたデザインとは日常に溶け込んでしまうからこそでしょう。無駄の削がれたものは『それ以外に成りようが無い』というところへ行き着いた結果です。

お稽古もそうだと思います。
お稽古を始めたばかりの頃は、ひとつひとつの学びがなかなか流れとしてつながらなくて悩んだり、できないことに苛ついたりしてしまいがちです。(私は今でもそうですが…)
繰り返し練習を重ねることで点と点がつながり、流れが腑に落ち、それによって迷いはなくなり、少しづつ自分の中に冷静さや落ち着きが生まれ、お稽古に集中していけるようになります。
一生懸命にお稽古をしている人ほど、どうしても自分への評価が厳しくなりがちですので、厳しい感情に押しつぶされないようにすることが必要になってきます。
この広い世界で、自分にとってのその都度ごとの真実を受け入れ、向き合えている人が果たしてどのくらいいるでしょうか?
感覚や心を研ぎ澄ませてエゴを断ち切り、本当に欲しい物だけに向かえる集中力を養うために私たちは様々なことを行います。私は集中力とは自分に向けつつも、外へも同時に向けていくものだと考えています。そうすれば自分にとって必要なこと、やるべきことが見えてきます。
これは調和や、主観と客観を同時に持つという感覚かもしれませんね。

私は自分自身がピラティスのトレーニングを受ける際や、なにか新しいことを学ぶときには、いつも身体の骨や筋肉を感じることに心を向けつつ自分自身を俯瞰して監督指示を出すことをしています。
これは誰かに習ったわけではなく、もともと絵を描くときにそういう風にしてきたことが自然と活きているのだと思います。
身体を使うことは、空気の中に残らない絵を描いているようなものかもしれませんね。
自分自身を見つめる、ということにおいて身体を動かして変化を感じるのは肉体の視点。呼吸を用いるのはエナジーや感覚の視点。瞑想は意識、思想からの視点。
どの視点からのアプローチも自分自身を見つめる手段ですから、その時々に合ったものを選択していけたらいいですね。
自分自身の成長段階によって、選択する手段も当然変わっていくことでしょう。

少し冷酷な考え方かもしれませんが、自分自身に必要なものを追っていくと、これまでの道とは全く別の新たな道に出会うこともあります。それは物や人とのご縁、五感の使い方、意識の切り替えなど様々でしょう。
これまで継続して来たものを手放すことに抵抗を感じたとしても、手段は結局手段なのです。
甕に水がいっぱいに入っていれば、新たに水は注げない。お腹がいっぱいの時はどんなに高級で美味しいお料理も楽しめません。
心に留めておくべきは、どんな手段を選ぼうが、どんなに一生懸命にお稽古を重ねようが、結果に執着しないことです。
そして、一見新しいと思える道も実はかつて自らが捜し求めていた道であったりします。
真剣にお稽古をする人が成果を求めることは、向上心がある現れでしょう。しかし、努力すれば得られる成果は、あなたの望む速度では訪れてくれないかもしれません。石に落ちる雨垂れが、繊細な速度で幾年も掛けて石を削るように。心が弱くなって諦めてしまいそうになるくらい、ゆったりとしたペースで得られる成果もあります。そこで諦めずに継続するために、心の鍛錬が役立つのではないでしょうか。
image3 期待をしないこと。焦らないこと。
望むような成果が得られなかったとしても自分自身を卑下しないこと。
常に微細な変化を認めて、次への糧にすること。

継続するために、どのようにすればいいのかは、人それぞれのやり方があります。
私が一番有効だと思うのは、習慣化することです。
例えば食後に歯を磨かないと居心地が悪いのは、歯磨きが習慣化しているからです。身体のメンテナンスも同じです。
そして習慣化するというのは、ただ単に続けるということではありません。行動ではなく、意識を続けるということです。
スタジオに来てクラスを受けるだけならばただのルーティンワークとなってしまいがちです。決まった手順というのは安心感がありますが、慣れは油断や意識の甘さを生みます。自らがいかに五感や意識を研ぎ澄ますことができるかは、同じ回数のお稽古でも結果に大きな差をもたらします。

冒頭で、「私は身体をデザインする方法がわからなかった」と書きましたが、考えてみれば仕事にしていた絵もデザインもきちんと理論を習ったことはないということを思い出しました。
私はただ上手に描けるようになりたくてたくさん描き、なんとなく自分が心地よいと感じる構図や色をどんどん当てはめてきたように思います。そこにはもちろん大いなる向上心があり、模索があり、自分の想いを表現する手段を洗練していくという過程で体験するありとあらゆる喜怒哀楽を味わう旅でもあったわけです。
もちろん今でももっと表現が上手になりたいです。これは絵も身体も全ての表現においてですが、現状に満足するようであるならば成長は止まります。
常に自分の現状を思い知ることができる場を自分に提供し続けられることは、とても贅沢なことだと思います。
もうデザインの仕事はしないの?とよく訊かれますが、デザインの対象が変わった、もしくは表現方法が変わっただけで、私は小さい頃からずーっと同じことをやり続けているのだと思います。
変わりばえもせず、自分でも呆れてしまいますが、満足することがないのですから終わりようも無いのです。
私にとっては、生きること、つまりは生活そのものが大切なお稽古です。
お稽古は何のためにあるのか、その答えはみなさんの心が既に知っています。落ち着きがあれば、今自分自身にとって必要なお稽古が何かがわかります。
どうか焦らずにお稽古を続けて下さいね。