第2回 「身体」
みなさまごきげんいかがですか?
ピラティス指導者のGinger(じんじゃ~)です。
先月よりピラティスにまつわる諸々の考察をコラム連載させていただいております。
何を何処まで、どういった言葉でお届けしようかと考える時間は、悩みつつも楽しいものでした。
第一回目のコラム発表の後に、お客様をはじめ、ピラティスの後輩たち、そしてピラティス以外の分野でプロフェッショナルとして活躍する方々から直接、好意的な感想をたくさんいただき、天にも昇る心地がいたしました。
ほんとうにありがとうございます。これからも精進を重ねてまいります。
第二回もよろしければお茶とお菓子を片手に、どうぞご一読くださいませ。
*
薫風香る皐月はそろそろお終い。陽射しが厳しすぎず、心地の良い日々でした。
これからは初夏の準備となる水無月がはじまりますね。
六月は梅雨時なのに、なぜ水が無い月?と思われるのであれば、旧暦に置き換えると納得がいくかもしれませんね。
旧暦の水無月は今年で言えば七月二十三日から八月二十一日にあたりますから、本当に暑さの盛りです。夕立がありがたく思えるほどですよね。
「水無月」意外にも、この月には「風待月」の異名があります。
じっとりと汗ばむ日々、熱の籠りがちな肌を冷ます涼風を待つ心がこの異名を生んだのでしょう。
日本人の自然へのまなざしは独特な繊細さと、やさしさがありますね。
さて、六月。梅雨には入りつつも、夏至に向けて太陽の光は日毎に広く隅々まで世界を満たしていくため、あたたかなエネルギーである陽氣は高まり続けます。
蒸し暑さの厳しくなる時候ですね。
湿度の高い島国で暮らす私たちは、見た目の涼に救われます。
暑さにうな垂れてしまうような季節に襟元をきりりと涼やかに整えて、白い首筋を細く長く立てて歩く和装の女性を見ると、こちらの姿勢も正されいくようです。
梅雨の候にも、雨傘の中にすっと背筋を伸ばしている人の佇まいに、周りの雑音が一瞬なくなってしまうかのような美があります。
その、可憐な垂直の線が氾濫するすべての荒々しさを吸い込んでしまうかのようです。
美しさを持つ人は、服や髪型だけでなく陽射しや雨さえも、纏う。
そこには見る人をはっとさせる姿勢のしなやかさがあります。
これを逆に捉えれば、相対する相手の姿勢の悪さは自分の姿勢の悪さの現われとも言えましょう。
こちらがリラックスして、心地よく姿勢を正してしていれば、相手も自ずと背筋を整えたくなるのが自然の摂理です。
では、いわゆる「良い姿勢」をつくるものは何でしょうか?
「姿勢」なんだから、「骨の配列」や「適切な筋肉の働き」などを含めた「身体」と思いますよね?
では、「良い姿勢」をつくるものは「身体」だけでしょうか?
植物は陽射しが厳しくて水が足りなくなれば、しおれてしまいます。
水が多過ぎては根腐れをおこし、風が吹かなくては葉裏に熱がこもり、蟲が棲みつき、土壌の豊かさが足りなくても、健やかには育ちません。逆に肥料をやり過ぎて根が焼けてしまうこともあります。
すべてはバランスです。
人間の身体もそうですよね。
アーユルヴェーダでは、我々の身体を構成するものは宇宙を構成する物質と同じ、「空風火水地」の五元素であると考えます。ですから自らの行動を宇宙と調和させていけば、心も身体も調和していく…。
というわけで、第二回目のコラムは「身体」がテーマです。
PROFILE : Ginger(じんじゃ~)アーティスト
マットピラティス/TYE4®指導者
アーユルヴェーダ セルフケアアドヴァイザー
英国にて衣装デザイン/制作を学び、デザイナーとして様々な身体表現者たちと関わる中で心身の不一致を感じ、そのコントロールへの興味を深める。
帰国後、ピラティスに出会い指導者に。アーユルヴェーダや東洋医学、薬膳の智慧を取り入れ、老若男女、プロの役者、ダンサー、武道家など幅広く指導。
個々人自らが『感じる力』を磨くことを何よりも重要視している。
英語でのレッスンや海外講師の通訳、人体経絡図の挿絵など、ピラティスと英語・アートをリンクさせた活動も積極的に展開している。
近年はピラティスという分野を超えて『今、自分自身が発する呼吸(言葉)と想い、そして行動がすべて気持ちよく一致しているか』を大切に指導を展開中。
Instagram: @ginger_jinjya
私がピラティスの指導をさせていただく中で、当然ながら様々な人の身体やその姿勢に日々向き合います。 私はもともと自分自身の姿勢が悪いと思ったことはありませんでした。 ピラティスに出会った時に自分の姿勢が良いものでは無いことを知り、愕然となりました。 長年の悩みでありつつも、「そういうものだ」と諦めていた膝下のO脚も、ストレートネックも、上半身と不似合いなバランスの下半身の張りも、歩き方の癖も、すべては不良姿勢が引き起こしていることを知りました。 私の場合、それらは改善していくことが可能なものでしたから、ピラティスやマッサージやストレッチを地道に続けることで身体が変わっていくことが面白くて仕方がなく、 その時から寝ても覚めてもピラティスのことを考えて実践する日々が始まりました。 ただ、当時はまさか自分がピラティスの指導を仕事にするとは想像もできないくらい身体の使い方が下手でしたから、面白いものです。 今も決して身体の使い方が上手というわけではありません。自分自身のトレーニングで指導を受けると、あまりにも思うように動かない身体に毎回落ち込んでしまうくらいです。 お客様には「出来ないことがあっても落ち込んだりしないで!」と言い聞かせつつも、私自身の場合はもはや仕事の一環ですから、自動車の整備点検のような感覚でトレーニングを受けています。 自分自身の身体に関しての評価も当然冷静で厳しいものにはなってしまいますが、自分の弱点や癖を把握し、それらを否定せずに仲良く付き合うことは昔よりもずいぶん上手になりました。 ここ半年ほどは余分な力みを抜くことと呼吸に集中をしています。このことに関しては、私のピラティスレッスンを受けて下さっているお客様はご存知の通りですね。 ピラティスのレッスンを受けようというお客様は、ダイエットやボディメイク、ご自身の行っているスポーツやダンスなどのパフォーマンス力向上、体力作りや機能改善など様々な目的をお持ちです。 週に一回のグループピラティスのレッスンを続けて行く中で、一年もすれば(早い人は数ヶ月で)何かしらの変化が心か身体のどちらかに自他共に確認でき始めます。 このスピードの差は、単に年齢や身体能力や経験の違いだけとは言い切れないように思います。 絶対的な健康促進や機能改善に迫られている方以外は、レッスンを受ける際の目的や目標が曖昧であったり、人任せ(この場合、クラスの指導者)であることが多いです。 自分自身の身体を変えたいという思いの強弱はあれど、少なくとも何かしらのハッピーな結果を求めていることが確かなのであれば、 私たち一人一人に先ず必要なのは自分の目的をより明確に「知る」ことなのではないでしょうか? 身体のことをきちんと整えたくて、ヨガやピラティスなどを行い、自分の身体や心と向き合う時間はとても有意義なものです。 しかし、目的がなんとなくである人と明確である人とでは、身体と心に現れる変化の速度や深さが格段に違うのです。 「健康」という言葉は元々「健やかな体と康らかな心」を意味する「健体康心」を縮めたものだと言います。 心と身体を整える際に、どちら側からアプローチを掛けるのが合っているのかは人それぞれだと思いますが、さて、では「身体」は私たちの全てでしょうか? 「身体」を整えれば必ず「心」は整うのでしょうか? 私は、生まれ持ったこの身体が自分の全てだと信じなくていいと考えています。 身体はこの3Dの世界に実体を持って生きる為、我々に天地から与えられた道具ですので、ただの魂の容れ物に過ぎません。車と運転手のような関係です。 目に見えるものが世界の全てだと考えるのであれば、なぜ我々日本人は食前食後に手を合わせ、四季折々の節句を祝い、 神社や仏閣へ行き、空間や時間の「間」を尊重するのでしょうか?妖怪という文化を育んできた日本人には、自らの鼻先も見えないほどの闇の中や、 畏怖を抱くほどの絶対的な静寂の中に、怪くうごめくものを見出してきました。それは、天や地にあふれる「人ではないもの」の力を認めていたからでしょう。 アーユルヴェーダでは、我々の身体を構成するものは「空風火水地」の五元素で、宇宙と同じ構成物質だと前述したのですが、アーユルヴェーダは医哲学ですから、哲学的アプローチにピンとこない方もおられることと思います。 もう少し科学的な事実をお伝えいたしましょう(あまり得意分野ではありませんが…)。 生物学的な視点を用いた場合、例えば海に含まれるミネラルの十大元素は水素、酸素、ナトリウム、塩素、マグネシウム、硫黄、カリウム、カルシウム、炭素、窒素です。 ヒトの身体でもほぼ同じ元素が見られます。 ヒトにはリンが多く存在することと、海はマグネシウムが多いということが違うだけです。 太古の地球に生まれたヒトの祖先は、三~四億年前のデボン紀の脊椎動物であると言われています。彼らが海中のミネラルを骨に貯蔵することで海から陸へ上がり、海中から約十倍になった重力によって体組織が圧迫され血流や栄養の補給が遮断された組織が壊死することを防ぐために、重力に耐えうる骨格と骨の硬化を獲得し、陸上での呼吸の問題を解決し、その後も進化を続けてヒトの形になって行ったと言われています。 自然界にあるもので構成された身体を、生き物はそれぞれの世界で生きる為に形を変え続けてきました。それが当然のことだからです。 変わりゆく環境の中で、生き延びるためには自らを変えなければならない。 それが生命の力の神秘であり、奇跡のようであり当たり前のようでもある宇宙の摂理です。 「身体はこの世界を体験するための道具」、という感覚に少しは共感を見出していただけたでしょうか? 私が尊敬する沖縄のアーユルヴェーダの先生が、こんなことを仰っていました。 「私たち人間は、葉っぱ一枚つくることが出来ない」と。 どんなに科学技術が進歩して、物質を構成する要素を細かい数値まで分析できたとしても、私たちはその材料を使って自ら光合成をする葉っぱ一枚を作ることはできない。 我々人間はどれだけ学んでも、大宇宙が為す仕事をそっくり真似することは出来ないのです。 人間を構成する材料をすべて集めて、姿形は「人間」と呼べる容れ物をつくったとしても、「魂」や「いのち」まではつくりだせないのです。 いのちの輝きがなければ、いくら美しい形の容れ物(身体)を持ったところで無意味でしょう。 こうした生命の神秘を想うと、今の自分に与えられた「身体」のことばかりにとらわれてしまって無闇に嘆いたり、傷ついたり、自分を否定することは、自らの「いのち」に対して実に哀しいことであると私は思います。 土の塊でできた泥人形のようなものに、いのちが加われば、呼吸をし、自らの考えを持ち、活き活きと動き出すのです。 生命の神秘に想いを馳せると、もう生きていることそれだけですべてが素晴らしく思えるくらいです。 しかしながら、私たちが物質としてこの世界で生き続ける限り、重力がかかる身体は重く、老いと共に変化する生理機能と付き合わなければなりません。 身体という容れ物は、整え、磨き、精気を補い、使いこなす必要があります。 その為には、先ず容れ物の状態を把握していく必要があります。 それはどうのようにすればいいのでしょうか? 例えば普段不養生をしている人が、久しぶりに少し長めの階段を登ったり、ちょっと走ったりしただけで息がはずんだり、若い頃にやっていたからと草野球などのスポーツを週末に楽しんで翌週に筋肉痛に苦しんだり…。身に覚えがある方もおられるでしょうか?(笑) 運動中に十分に酸素を供給されなかった筋肉は血流も栄養も届かないままに無理をした為に硬くなり、痛みを出すことでそれを教えてくれているように思います。 身体を動かすことで、今の自分がどのくらい身体が本来持つ機能を眠らせていたかがわかります。身体を動かす原動力はやはり呼吸でしょう。 ピラティスのプラクティスを通じて自分自身の身体と向き合うことは、自分の身体の取り扱い説明書を読み取り、修正していくような感覚に近いかもしれません。 その説明書は人生経験や年齢、季節によっても時事刻々と変わります。 「息をしている」ということは「変わりつづける」ということですから、これは当然のことと言えます。 ですからグループレッスンに参加して、他の参加者やまして講師の身体の使い方と自分のそれを比べて落ち込んだりすることは無益です。目標にする程度に留めておくと良いと思います。 恵まれた状況に落ち込むことをやめ、今の自分に足りないものをきちんと把握して明確な目的につなげていくことが大切です。 佐藤一斎の「言志四録」のうち、言志録第二十条にこうあります。 「人の精神尽く面に在れば、物を逐いて妄動することを免れず。 (ひとのせいしんことごとくおもてにあれば、ものをおいてもうどうすることをまぬがれず) 須く精神を収斂して、諸れを背に棲ましむべし。 (すべからくせいしんをしゅうれんして、これをせにすましむべし) 方に能く其の身を忘れて、身真に吾が有と為らん。 (まさによくそのみをわすれて、みしんにわがゆうとならん) 」 これは、人の心がすべて顔に集中していると、他のことに心を奪われて、間違った行動をしがちになる。だから心をひきしめ、心を背中に住まわせよう。 自分の欲を忘れれば、外のものに惑わされないほんとうの自分となる… といった意味です。 「集中力」と言っても、一箇所のみに気を取られて全体が見えない集中力では、自分自身をも見えなくさせてしまいますね。 ピラティスのレッスンを受けているお客様で、すぐに下を向いてしまったり、お顔が正面に向いていても目が泳いでいたり、すぐに目を瞑ってしまう方がおられます。初心者のお客様のほとんどがそのような心の使い方をされます。 これは私もそうなのですが、新しいことや、これまでやったことのない動きに挑戦する時、手順や形を考えたり、自分自身の身体を感じようとして、 つい動かしている身体の部分を凝視したり、下や横に目線を送ったりしてしまいます。これはあれこれと考えごとをしながらその動作を行っている証拠です。 そうなった場合、身体は動いていますが、心の方がたくさん動いているため、真実には身体を動かせていないと言えましょう。 考えの中に心を置く時、心の向きは自分自身へのみ向かうこととなり、まわりが見えなくなります。 木を見て森を見ないという状況です。 枝葉の動きに心を捕らわれすぎては、幹の部分への注意がおろそかになってしまいます。 身体を使う時は、一部のみを動かすのではなく、一部を全体と捉え、また全体を一部と捉えます。 解剖学的な理論で説明をいたしますと、脊柱、つまり背骨の一番目の首の骨(頚椎一番)は頭蓋骨の中にあります。 首の骨も背骨、という意識を持たないお客様が意外と多いのですが、是非ともこの機会に意識付けをされて欲しいものです。 現代の私たちはスマートフォンやパソコンといった文明の利器を使用する際に首が前方に落ちた姿勢になることが増えました。 通常、直立姿勢で頭の重さが頚椎(首の骨)にかける負担は約5kgとされ、45°の傾斜がかかった際にその負荷は20kgにも増加します。 私たちがスマートフォンを見つめている時間は平均で一日3.2時間という報告があります。一週間で22.4時間。 一年間だと49日間も不良姿勢で過ごしているという計算になります。四十九日って… なんだかもうそれだけで恐ろしげな予感がしますよね…(笑)。 下を向く、とういうことは(一部が全体ですから)即ち背骨全ての不良姿勢につながるきっかけであるということです。背骨の近くには自律神経が通っていますから、背骨が良い位置に立っていないとうまく働きません。 呼吸も血流も栄養も、首を境に上下へ交流しないのであれば脳にとっても良くないですよね。 頚椎症などの予防のためにも、現代に生きる私たちにとって首周りのこわばりを取り除き、首の安定に必要な筋肉や靭帯の強化は重要なことです。 まぁ、あれこれと筋肉のことを考えるよりも、空を見上げる時間を増やすことから始めてみて下さいね。 スマホを捨てて外へ出よう、です。 また、ピラティスのムーブメントを行う際には、「今動かしている部分」以外は「安定させておく」ことが必須条件です。 心の微細な動きが首の不安定さに現れ、ピラティスムーブメントから得られる効果を減少させてしまいます。 正しくムーブメントを実行するためには集中力が必要ですが、集中をすることは心を一方向へ向けつつ、自分自身が見ることのできない部分(背中や足裏)にも神経を通わせて(氣を出しておく)ということです。 私はピラティスムーブメントやヨガのアーサナーを実行する際に、少し幽体離脱をして自分自身を俯瞰しているような感覚を持つようにしています。 そうすることで客観的に自分自身を分析できると同時に呼吸が乱れることも避けらます。 個々人で自分自身の成長段階に合った最適な方法を見つけていかれると良いと思います。 身体の姿勢も心の状態も、自分自身の呼吸が教えてくれますから、まさに「身体に訊く」というよりかは「呼吸に訊く」という感覚でしょうか? そして呼吸を深め、ただただ呼吸に集中をしていくと、身体という感覚がなくなっていきます。 姿勢はその時きっと良くなっているはずです。 そうなった時にはじめて自分自身の存在を見つけていけるように思いますが、このあたりまた長くなりそうなので、今回はここまでです。 次回の更新も新月の日ですが、その前に夏至がありますね。 冒頭にも書きましたが、夏至の日に陽氣が最高潮に高まったことを境に、太陽の光はだんだんと少なくなっていきます。ただ梅雨と暑さの最中ですから、感じにくいかもしれません。 一年間を一日に例えれば、夏至はちょうど正午となります。 これまでの努力が花開くように、身の周り、心と身体を整理整頓して一年のバランスを取れると良いですね。 では、また次回。
PROFILE : Ginger(じんじゃ~)
私がピラティスの指導をさせていただく中で、当然ながら様々な人の身体やその姿勢に日々向き合います。 私はもともと自分自身の姿勢が悪いと思ったことはありませんでした。 ピラティスに出会った時に自分の姿勢が良いものでは無いことを知り、愕然となりました。 長年の悩みでありつつも、「そういうものだ」と諦めていた膝下のO脚も、ストレートネックも、上半身と不似合いなバランスの下半身の張りも、歩き方の癖も、すべては不良姿勢が引き起こしていることを知りました。 私の場合、それらは改善していくことが可能なものでしたから、ピラティスやマッサージやストレッチを地道に続けることで身体が変わっていくことが面白くて仕方がなく、 その時から寝ても覚めてもピラティスのことを考えて実践する日々が始まりました。 ただ、当時はまさか自分がピラティスの指導を仕事にするとは想像もできないくらい身体の使い方が下手でしたから、面白いものです。 今も決して身体の使い方が上手というわけではありません。自分自身のトレーニングで指導を受けると、あまりにも思うように動かない身体に毎回落ち込んでしまうくらいです。 お客様には「出来ないことがあっても落ち込んだりしないで!」と言い聞かせつつも、私自身の場合はもはや仕事の一環ですから、自動車の整備点検のような感覚でトレーニングを受けています。 自分自身の身体に関しての評価も当然冷静で厳しいものにはなってしまいますが、自分の弱点や癖を把握し、それらを否定せずに仲良く付き合うことは昔よりもずいぶん上手になりました。 ここ半年ほどは余分な力みを抜くことと呼吸に集中をしています。このことに関しては、私のピラティスレッスンを受けて下さっているお客様はご存知の通りですね。 ピラティスのレッスンを受けようというお客様は、ダイエットやボディメイク、ご自身の行っているスポーツやダンスなどのパフォーマンス力向上、体力作りや機能改善など様々な目的をお持ちです。 週に一回のグループピラティスのレッスンを続けて行く中で、一年もすれば(早い人は数ヶ月で)何かしらの変化が心か身体のどちらかに自他共に確認でき始めます。 このスピードの差は、単に年齢や身体能力や経験の違いだけとは言い切れないように思います。 絶対的な健康促進や機能改善に迫られている方以外は、レッスンを受ける際の目的や目標が曖昧であったり、人任せ(この場合、クラスの指導者)であることが多いです。 自分自身の身体を変えたいという思いの強弱はあれど、少なくとも何かしらのハッピーな結果を求めていることが確かなのであれば、 私たち一人一人に先ず必要なのは自分の目的をより明確に「知る」ことなのではないでしょうか? 身体のことをきちんと整えたくて、ヨガやピラティスなどを行い、自分の身体や心と向き合う時間はとても有意義なものです。 しかし、目的がなんとなくである人と明確である人とでは、身体と心に現れる変化の速度や深さが格段に違うのです。 「健康」という言葉は元々「健やかな体と康らかな心」を意味する「健体康心」を縮めたものだと言います。 心と身体を整える際に、どちら側からアプローチを掛けるのが合っているのかは人それぞれだと思いますが、さて、では「身体」は私たちの全てでしょうか? 「身体」を整えれば必ず「心」は整うのでしょうか? 私は、生まれ持ったこの身体が自分の全てだと信じなくていいと考えています。 身体はこの3Dの世界に実体を持って生きる為、我々に天地から与えられた道具ですので、ただの魂の容れ物に過ぎません。車と運転手のような関係です。 目に見えるものが世界の全てだと考えるのであれば、なぜ我々日本人は食前食後に手を合わせ、四季折々の節句を祝い、 神社や仏閣へ行き、空間や時間の「間」を尊重するのでしょうか?妖怪という文化を育んできた日本人には、自らの鼻先も見えないほどの闇の中や、 畏怖を抱くほどの絶対的な静寂の中に、怪くうごめくものを見出してきました。それは、天や地にあふれる「人ではないもの」の力を認めていたからでしょう。 アーユルヴェーダでは、我々の身体を構成するものは「空風火水地」の五元素で、宇宙と同じ構成物質だと前述したのですが、アーユルヴェーダは医哲学ですから、哲学的アプローチにピンとこない方もおられることと思います。 もう少し科学的な事実をお伝えいたしましょう(あまり得意分野ではありませんが…)。 生物学的な視点を用いた場合、例えば海に含まれるミネラルの十大元素は水素、酸素、ナトリウム、塩素、マグネシウム、硫黄、カリウム、カルシウム、炭素、窒素です。 ヒトの身体でもほぼ同じ元素が見られます。 ヒトにはリンが多く存在することと、海はマグネシウムが多いということが違うだけです。 太古の地球に生まれたヒトの祖先は、三~四億年前のデボン紀の脊椎動物であると言われています。彼らが海中のミネラルを骨に貯蔵することで海から陸へ上がり、海中から約十倍になった重力によって体組織が圧迫され血流や栄養の補給が遮断された組織が壊死することを防ぐために、重力に耐えうる骨格と骨の硬化を獲得し、陸上での呼吸の問題を解決し、その後も進化を続けてヒトの形になって行ったと言われています。 自然界にあるもので構成された身体を、生き物はそれぞれの世界で生きる為に形を変え続けてきました。それが当然のことだからです。 変わりゆく環境の中で、生き延びるためには自らを変えなければならない。 それが生命の力の神秘であり、奇跡のようであり当たり前のようでもある宇宙の摂理です。 「身体はこの世界を体験するための道具」、という感覚に少しは共感を見出していただけたでしょうか? 私が尊敬する沖縄のアーユルヴェーダの先生が、こんなことを仰っていました。 「私たち人間は、葉っぱ一枚つくることが出来ない」と。 どんなに科学技術が進歩して、物質を構成する要素を細かい数値まで分析できたとしても、私たちはその材料を使って自ら光合成をする葉っぱ一枚を作ることはできない。 我々人間はどれだけ学んでも、大宇宙が為す仕事をそっくり真似することは出来ないのです。 人間を構成する材料をすべて集めて、姿形は「人間」と呼べる容れ物をつくったとしても、「魂」や「いのち」まではつくりだせないのです。 いのちの輝きがなければ、いくら美しい形の容れ物(身体)を持ったところで無意味でしょう。 こうした生命の神秘を想うと、今の自分に与えられた「身体」のことばかりにとらわれてしまって無闇に嘆いたり、傷ついたり、自分を否定することは、自らの「いのち」に対して実に哀しいことであると私は思います。 土の塊でできた泥人形のようなものに、いのちが加われば、呼吸をし、自らの考えを持ち、活き活きと動き出すのです。 生命の神秘に想いを馳せると、もう生きていることそれだけですべてが素晴らしく思えるくらいです。 しかしながら、私たちが物質としてこの世界で生き続ける限り、重力がかかる身体は重く、老いと共に変化する生理機能と付き合わなければなりません。 身体という容れ物は、整え、磨き、精気を補い、使いこなす必要があります。 その為には、先ず容れ物の状態を把握していく必要があります。 それはどうのようにすればいいのでしょうか? 例えば普段不養生をしている人が、久しぶりに少し長めの階段を登ったり、ちょっと走ったりしただけで息がはずんだり、若い頃にやっていたからと草野球などのスポーツを週末に楽しんで翌週に筋肉痛に苦しんだり…。身に覚えがある方もおられるでしょうか?(笑) 運動中に十分に酸素を供給されなかった筋肉は血流も栄養も届かないままに無理をした為に硬くなり、痛みを出すことでそれを教えてくれているように思います。 身体を動かすことで、今の自分がどのくらい身体が本来持つ機能を眠らせていたかがわかります。身体を動かす原動力はやはり呼吸でしょう。 ピラティスのプラクティスを通じて自分自身の身体と向き合うことは、自分の身体の取り扱い説明書を読み取り、修正していくような感覚に近いかもしれません。 その説明書は人生経験や年齢、季節によっても時事刻々と変わります。 「息をしている」ということは「変わりつづける」ということですから、これは当然のことと言えます。 ですからグループレッスンに参加して、他の参加者やまして講師の身体の使い方と自分のそれを比べて落ち込んだりすることは無益です。目標にする程度に留めておくと良いと思います。 恵まれた状況に落ち込むことをやめ、今の自分に足りないものをきちんと把握して明確な目的につなげていくことが大切です。 佐藤一斎の「言志四録」のうち、言志録第二十条にこうあります。 「人の精神尽く面に在れば、物を逐いて妄動することを免れず。 (ひとのせいしんことごとくおもてにあれば、ものをおいてもうどうすることをまぬがれず) 須く精神を収斂して、諸れを背に棲ましむべし。 (すべからくせいしんをしゅうれんして、これをせにすましむべし) 方に能く其の身を忘れて、身真に吾が有と為らん。 (まさによくそのみをわすれて、みしんにわがゆうとならん) 」 これは、人の心がすべて顔に集中していると、他のことに心を奪われて、間違った行動をしがちになる。だから心をひきしめ、心を背中に住まわせよう。 自分の欲を忘れれば、外のものに惑わされないほんとうの自分となる… といった意味です。 「集中力」と言っても、一箇所のみに気を取られて全体が見えない集中力では、自分自身をも見えなくさせてしまいますね。 ピラティスのレッスンを受けているお客様で、すぐに下を向いてしまったり、お顔が正面に向いていても目が泳いでいたり、すぐに目を瞑ってしまう方がおられます。初心者のお客様のほとんどがそのような心の使い方をされます。 これは私もそうなのですが、新しいことや、これまでやったことのない動きに挑戦する時、手順や形を考えたり、自分自身の身体を感じようとして、 つい動かしている身体の部分を凝視したり、下や横に目線を送ったりしてしまいます。これはあれこれと考えごとをしながらその動作を行っている証拠です。 そうなった場合、身体は動いていますが、心の方がたくさん動いているため、真実には身体を動かせていないと言えましょう。 考えの中に心を置く時、心の向きは自分自身へのみ向かうこととなり、まわりが見えなくなります。 木を見て森を見ないという状況です。 枝葉の動きに心を捕らわれすぎては、幹の部分への注意がおろそかになってしまいます。 身体を使う時は、一部のみを動かすのではなく、一部を全体と捉え、また全体を一部と捉えます。 解剖学的な理論で説明をいたしますと、脊柱、つまり背骨の一番目の首の骨(頚椎一番)は頭蓋骨の中にあります。 首の骨も背骨、という意識を持たないお客様が意外と多いのですが、是非ともこの機会に意識付けをされて欲しいものです。 現代の私たちはスマートフォンやパソコンといった文明の利器を使用する際に首が前方に落ちた姿勢になることが増えました。 通常、直立姿勢で頭の重さが頚椎(首の骨)にかける負担は約5kgとされ、45°の傾斜がかかった際にその負荷は20kgにも増加します。 私たちがスマートフォンを見つめている時間は平均で一日3.2時間という報告があります。一週間で22.4時間。 一年間だと49日間も不良姿勢で過ごしているという計算になります。四十九日って… なんだかもうそれだけで恐ろしげな予感がしますよね…(笑)。 下を向く、とういうことは(一部が全体ですから)即ち背骨全ての不良姿勢につながるきっかけであるということです。背骨の近くには自律神経が通っていますから、背骨が良い位置に立っていないとうまく働きません。 呼吸も血流も栄養も、首を境に上下へ交流しないのであれば脳にとっても良くないですよね。 頚椎症などの予防のためにも、現代に生きる私たちにとって首周りのこわばりを取り除き、首の安定に必要な筋肉や靭帯の強化は重要なことです。 まぁ、あれこれと筋肉のことを考えるよりも、空を見上げる時間を増やすことから始めてみて下さいね。 スマホを捨てて外へ出よう、です。 また、ピラティスのムーブメントを行う際には、「今動かしている部分」以外は「安定させておく」ことが必須条件です。 心の微細な動きが首の不安定さに現れ、ピラティスムーブメントから得られる効果を減少させてしまいます。 正しくムーブメントを実行するためには集中力が必要ですが、集中をすることは心を一方向へ向けつつ、自分自身が見ることのできない部分(背中や足裏)にも神経を通わせて(氣を出しておく)ということです。 私はピラティスムーブメントやヨガのアーサナーを実行する際に、少し幽体離脱をして自分自身を俯瞰しているような感覚を持つようにしています。 そうすることで客観的に自分自身を分析できると同時に呼吸が乱れることも避けらます。 個々人で自分自身の成長段階に合った最適な方法を見つけていかれると良いと思います。 身体の姿勢も心の状態も、自分自身の呼吸が教えてくれますから、まさに「身体に訊く」というよりかは「呼吸に訊く」という感覚でしょうか? そして呼吸を深め、ただただ呼吸に集中をしていくと、身体という感覚がなくなっていきます。 姿勢はその時きっと良くなっているはずです。 そうなった時にはじめて自分自身の存在を見つけていけるように思いますが、このあたりまた長くなりそうなので、今回はここまでです。 次回の更新も新月の日ですが、その前に夏至がありますね。 冒頭にも書きましたが、夏至の日に陽氣が最高潮に高まったことを境に、太陽の光はだんだんと少なくなっていきます。ただ梅雨と暑さの最中ですから、感じにくいかもしれません。 一年間を一日に例えれば、夏至はちょうど正午となります。 これまでの努力が花開くように、身の周り、心と身体を整理整頓して一年のバランスを取れると良いですね。 では、また次回。