第3回 「調和」
みなさまごきげんいかがですか?
ピラティス指導者のGinger(じんじゃ~)です。
六月二十一日は夏至でした。
本日は閏皐月の朔。
月の満ち欠けに従う旧暦は、太陽歴とのズレを調整するために、閏月というものがあります。 通常、旧暦では四月が初夏、五月が仲夏、六月が晩夏で夏が三ヶ月ですが、今年は仲夏が二回の四ヶ月ということになります。これで月の暦と太陽の暦が調和するわけです。
太陽歴の七夕へ向けて太陽の光は強さを増し、地上のいのちを育みますが、太陽と地球との距離はどんどん遠ざかっていきます。
私にはこのことがなんとも不思議なのですが、自然の摂理のおもしろさでもあります。
長い夏は暑さにうなだれるよりも、上手に涼を取って心地よく過ごしたいものですね。
夕涼み、お月見、夜明けの碧。木陰の散歩、水辺のあそび。夏の楽しみはいろいろです。
さて、私のコラムも第三回目を迎えました。
「毎回楽しみにしています」の励ましのお声に、なんとか頑張って書かせていただいております。
感謝です。本当に、こんな文章をよく読んでくださるなぁと感激してしまいます。
と言うのは私自身、書いていて「なんだか堅いなぁ…。これでは読み手も辛いんじゃないかなぁ?」と苦笑してしまうことがよくあるからです。
できるだけ、読みやすく笑えるコラムにしたいという本人の願いとは裏腹に、毎回真逆の方向へ進んで行っているような気がいたしますが、 今回もどうぞお茶とおやつを片手にお気軽にお付き合いをお願いいたします。
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今回は「調和」について書きたいと思います。
私は旅が好きです。
日帰りでも小旅行でも、時間ができればささっと出かけます。
おそらくこの旅人気質は若い頃に培われたもののように思います。
初めて独りで旅をしたのはイギリス。十九歳くらいの頃。夏休みを利用した一ヶ月ほどの語学学校留学でした。
飛行機に乗ることは人生で二回目でしたが、たった独りで海外へ行くということは初めてでした。この時私が感じたのは不安感ではなく、むしろなんとも言えない高揚感でした。
海辺の、陽射しが強い夏のイギリスで、ホームステイ先から学校のある場所まで歩いたり、バスに乗ったり、週末に遠足へ出かけたり、時間の密度が濃い日々でした。
当時の日記兼スケッチブックを見返しますと、ぎっしりと文字や絵が書き込まれています。
自由を楽しみつつも不安定な心の機微が手に取るようにわかり、まだ未熟な自分を抱きしめてあげたくなります。イギリスにしては珍しく天気のいい街の、 抜けるような青空の下であちらこちら自由に歩き回り、小さい頃にイギリスの絵本で見たお菓子や植物やなんかを体験しながら、 これからも異国に近いところで暮らしたいとなんとなく夢を描いたりしていたように思います。ただ漠然とした不安もありました。
それは、自分の表現したいことをどうすればいいのかわからないままこの先を送るのかという恐怖と、自分が表現したいことは実際は取るに足らないことで、 自分自身の悩みなどは無意味なのかもしれないという疑念、そしてそれでも表現をしていきたいという衝動。さまざまな感情が、自由の身の私を突き動かしつつも、 目的地の定まらぬまま大海に船を漕ぎ出だすようで不安さを拭いきれない日々でした。
今思えば、若き日々の悩みというものは自分自身の望みを出来うる限り実現しつつ、「この先自分がこの世界で何かの役に立たつのか」ということに集約されるように思います。
世界のなかで自分が何かの役に立つということを、やりたいことや好きなことで実現できるならば、それは幸福なことかもしれません。自分がやるべきことをやる、 というのは必ずしも楽しいことばかりではないからです。むしろ苦しいことの方が多いかもしれません。
ただ、この生における自分の役割を早くに知ることができた人は幸運だと、私は常々思います。自らに課された役割がわかれば、あとは邁進あるのみ。
けれども未熟な私は夢の中のようなイギリスの夏から、また日本の生活の忙しさの中に引き戻されるやいなや、心を自ら再び硬くして毎日をもがくように過ごしていました。
そんな私の考え方を変えてくれたのは、ある先輩の言葉でした。
日本の大学を卒業後、やはり足のつかない水の中を必死で息継ぎをしながら泳ぐような心地で毎日を過ごしていました。イギリスでの思い出も磨り硝子の向こうにあるもののように、 側にあるはずなのにぼやけて感じられ、自分の感情も感覚も壊死していくようだった社会人生活。自分自身の価値もわからなくなり、この生における役割などもうないのかと思えるほどにつらい日々でしたが、 あるきっかけでその仕事を辞めて、海外でアートの勉強に行くという新たな好機を得て、それを手放してなるものかと必死でした。
件の先輩に会ったのは、留学準備のために一年ほど東京に住んでいた時でした。先輩から連絡を受けて、数日間上京中の彼に会いました。
「どうして東京に来たんですか?」と訊くと「観たい舞台があったから。」という答えが返ってきました。
その頃の私には大阪はとても遠く感じられていたので、彼がただ舞台を観るためだけに、忙しい仕事の合間を縫って大阪から東京へわざわざ出てきたことに驚きました。 しかし彼曰く「それだけの価値があるものだし、逃せば次は無い。」
彼にとっては何気ない一言だったのでしょうが、私には価値観を変えるきっかけでした。
その先輩がわざわざ仕事を休んでまで観に来たという同じ舞台を私も観に行きましたが、後にも先にもあれほど非現実的な体験は今のところありません。
その時の舞台というのは、本国フランスでは「現代のシャーマン」ともいわれているBartabas氏が率いるThe equestrian Theater Zingaroというフランスの舞台騎馬芸術集団の公演でした。
大地の上にゲルのようなテントが張られ、登場するのは数十頭の優美な馬たちと人間。台詞は無く、照明と音楽の幻想的な雰囲気の中で人馬一体となって円形舞台の中を縦横無尽に飛び回ります。 Bartabas氏はこのZingaroの作品制作、演出、オーケストラシェフ、馬調など全てを取りまとめています。本名、年齢などの経歴などは明かしておらず、ただ彼には馬の気持ちがわかり、馬たちと会話することができるといわれています。
私は、この一切俗世的な情報を排除し馬たちと寝食を共にするBartabas氏には、何か自分の使命のようなものが見えているのかもしれないと思いました。
それほど彼の作る舞台は表現したいものが明確で、まるで天から得た人間が読めない暗号を解読し、馬たちとの舞台で私たちにわかるようにみせてくれているかのようでした。 Bartabas氏の作品を媒体として、私たちは畏敬の念を抱くあの大きなものに刹那的に触れるような感覚でしょうか。
実際に、彼が自身の行いをどう考えているかはもちろんわかりませんので、これは私の勝手な一個人の考えにすぎませんが、彼が「媒体」としての自身の役割に徹しているのであれば、 この生で与えられた名前や年齢は意味をなさないし、手離すことも必然であると私は思います。
私が運よくこの奇跡ともいうべき公演を観ることが出来たのは二〇〇五年。Zingaroの初来日公演、チベットをモチーフにした「Loungta(ルンタ)」という作品でした。 「ルンタ」はチベット語で「風の馬」という意味なのだそうです。チベット医学でルンとは風。 アーユルヴェーダでいうヴァータ(空と風)のことなのですが、その当時はもちろんアーユルヴェーダなんて知らないですし、チベットはおろかインドにさえ行ったこともありませんでした。
ただテントの中の怪しい暗がりと、夢を見ているかのような淡い照明の中、浮かび上がる死と生の印象たち。 チベットの僧らによる読経や馬たちの美しい動き、まさに人馬一体の舞台に息を呑みました。 ラストに円形舞台を囲むように現れた現代風のスーツ姿のキャストたちが、髪をほどき、ジャケットやスカーフが歌舞伎のぶっかえりのように別の衣装となり、見る間にその出で立ちを遊牧民たちのそれに変えていった演出は今でも忘れられません。 差し上げた傘が翻ってしまうほどの速さで疾走する馬の背の上で、微笑みながら軽やかに遊ぶ彼らの姿は、まさに風の馬そのものでした。思い返すたびに、私の心が明るくなります。
Zingaroはその後二〇〇九年「Battuta」で再来日をしているとのことですが、この時私はイギリスにいました。それ以降彼らの来日公演があったかどうか、今回私は調べられませんでしたが、おそらく無かったのでしょう。 何十頭もの馬の輸送費や特設テントの設立などを考えるとそうそう来日公演が可能であるとは思えません。 また、一つの作品を作るのにも最低で三年はかかるとのことで、二〇一五年に待望の新作「On achéve bien les angles (élégies)」が本国パリにて発表されました。 この騎馬舞台集団は同じ舞台を再演することはありませんから、先輩の言葉通り、あの時の舞台は「逃せば次は無い」でした。あの怪しいチベットの天空の無限の世界はDVDなどでは当然伝わりきらない。あの世界は私の中にあるのです。
是非次回はフランスでBartabas氏の騎馬舞台の新作を拝見したいものです。
この舞台鑑賞をきっかけに、「観たいものがあれば自分がそこへ行く」という一種のルールが私の中で確立したように思います。
これは舞台に限らずワークショップなどの学習もそうですが、国内で叶うのであれば幸福なことで、これまでもそれが可能なのであれば海外へ足を運んでいます。 だって、今生は一度きりなのですから、「後悔は先に立たず」です。
短い今生において、その時々での自分の「役割」というものを私はいつも考えるようにしています。
先のことを例にすれば、実はそれほどまでに私に影響を与えた一言を発した私の先輩ですが、彼とはそれ以来二回ほど軽くお目に掛かっただけなのです。 特に日常頻繁に連絡を取り合う仲でもないのですから、私はその一言をいただくためにこの先輩と出会ったとしか思えないのですが、考えすぎでしょうか?
「役割」について、もう一人思い浮かぶ方のことを書きましょう。
桂米朝さんという落語家さんのことです。私はこの方がとても好きです。
二〇一五年の三月に惜しくも故人となってしまわれました。この場をお借りして改めてご冥福をお祈り申し上げます。
落語を好きになったのは私の両親の影響なのですが、実家の父の車には米朝落語と朱雀落語のCDが常備されており、ドライブの際はいつもこのお二人のお声を聴きながらというのがお約束になっていました。
イギリスへのアート留学後、そのまま衣装デザインと製作の仕事であちらに住んでいた頃も、母が送ってくれたCDの同じ噺を飽きることなく聴いていました。 六〜七年向こうに暮らしていて帰国したのは二回ほどですし、国際電話もたまにしかかけられませんでしたから、日本語に飢えていたのだと思います。 ですからそのお陰で米朝さんの「饅頭こわい」、「除夜の雪」は噺の内容はもちろん、台詞や間を含めてもうすっかり耳に馴染んでしまっていますが、そこはこの稀有な噺家さんの力量なのでしょう。何度同じ噺を聴いても、深い面白さがあります。 一つ聴くと、もう一つ聴きたくなる。情景が目に浮かぶようで、声に明るさと品があって、艶もある。
米朝さんの落語は、異国で何度も私のさみしいときを救ってくれました。
『芸人になるなら末期哀れは覚悟の前やで…。』
米朝さんは師であった正岡容氏の「いまや伝統ある上方落語は消滅の危機にある。復興に貴公の生命をかけろ」との言葉を受け、本格的に落語家を志すようになり、会社勤めをしながら四代目桂米團治に弟子入りを志願した時に、米團治師匠にそう言われたそうです。
きっと肚をくくられたのでしょう。米團治師匠の死を機に落語家を専業にされ、特に上方落語の復興に東奔西走をされました。 後に紫綬褒章を受章、ついには人間国宝にまでなれ、落語家として生涯を終えられたのですから、まさにご自身の生命をかけられたということですね。
米朝さんもまた今生におけるご自身の役割というものをわかっておられたように、私は思います。 上方落語の復興はもちろんのこと、滅びた噺を蘇らせるために当時の時代背景、風俗、流行などの研究のために多種多様な古書や文書を収蔵した書庫( 弟子曰く「米朝文庫」) を自宅に所有されていたそうです。
テレビ番組などでも機会があれば当時の日用品などその貴重な資料の一部を見せ、実際に使って見せたりもされておられました。
実父や師である正岡氏、米團治氏がみな五十五歳で亡くなったので、ご自身もその歳に死ぬと断言され、その歳が来るまでにと書籍や音声資料による落語の記録に精力的に取り組まれたそうです。
米朝さんが 多くの資料を残されて、多くの方々と共有してきたことは、落語というジャンルを超えたある種の遺産であり、一人の人間が成した偉業であると私は思います。
米朝さんは実際には八十九歳でお亡くなりになられましたが、これほどの才をお持ちの方を、よくも天が其処まで待ってくださったなぁと私は思います。ただこの方が与えられた役割を果たすにはそれだけの時間を掛ける必要があったのかもしれません。
私が特に米朝さんを好きなのは、佇まい、そして話し方の両方になんともいえない男の色気があるからです。あの上品で艶のあるお声を聴くと、忙しい日々でもほっとする時間が生まれます。
もし、米朝さんがご自身の役割を知らずに一生を終わられていたらどうであったのか…。
おそらく様々な歯車が変わっていたことでしょうし、当然私も今とは違う形で表現の世界に関わっていたことでしょう。
役割を果たした一人の人間が世界に与える影響は甚大です。
自らの役割を果たすことは、世界の求めることを体現していくこと。自らのなすべきことをなす。それは世界との調和です。
さて、今回はまだピラティスについて一言も触れていませんでしたから、そろそろその分野の話もいたしましょう。せっかくですから落語に絡めたいと思います。
数ある噺の中に「本能寺」という噺があります。
その「本能寺」のマクラ(噺の導入部分)を、米朝さんは歌舞伎の「型」で魅せてくれます。
「型というのはありがたいもんでな」そう仰って、泣きの型を例に手の持っていき方や小首のかしげ方一つで老若男女とその登場人物の置かれた境遇まで一瞬で体現してしまいます。
しかし米朝さんはこう続けます。 「(歌舞伎の真似をしようと仰るのであれば)ちゃんとした指導者がいれば(型の体現は)そんなに難しいもんではないと思うんです。かえってリアルなお芝居の方が難しい。型があるっちゅうのは楽ですな。」 「下手は下手なりに型があることで格好はつく」と。
私は本当にその通りだと思います。そう、型は有り難いのです。なぜならば米朝さんの仰るように「格好がつく」からです。なんとなくできているように見えるのです。
しかしアドリブ、即興にこそ役者の実力が現れるように、自分自身の言葉や身体で何かを表現することは容易なことではありません。それは例えばピラティスのムーブメントに関しても同じです。
私は初心者向けのクラスや体験レッスンを担当させていただくことが多いのですが、初めてピラティスやTYE4®に出会ったお客様の大半は、その特徴的な骨の使い方に対し「頭ではわかるけれど(体現)できない… 」と仰います。 当然ながらなんでも最初はそうでしょう。
私も全く同じ道を辿り、未だ修行半ばですから「わかる/わからない」「できる/できない」は事実として受け止めても、大切なのはそこにこだわらないことです。
伝統芸能や武道においても、先人たちが見つけてきた「型」というものには一つ一つ意味があります。はじめは深い意味など何もわからなくてもとりあえず型を追うことから始めます。
しかし心と身体、自分自身とまわりが調和しないうちは、どこかぎこちなさが生じます。これは型の意味がわからない段階では必ずおきることです。
何事も形式の理解に伴い心と身体が少しずつ一致することで、ほんとうの意味での理解が深まって行くのかなと思います。 心がきちんと動作を紡ぎ出せば、動きの無駄は削ぎ落とされ、殊更に構えて力まずとも自然と「型」に近づいていくものです。
型というものはつまり仕事をなすための「役割」なのかもしれません。型に導かれて動きの無駄や迷いは取り去られ、心と身体は調和していきます。その役割を無視して勝手な動きをすれば何かしらの「望まない結果」が生じることでしょう。
ある新しい世界に身を投じるとき、そこはいわば異国のようなもので、これまでの経験はいったん捨てて、真っさらな状態で教えられたことをそのままやるしかないのですが、 それはちょうど私たちが海外旅行に行くと自国で使ってる通貨が使えなくなることと似ているかもしれません。自分の持っている経験や知識は、通貨を両替するのと同様に新しい世界のそれに置き換えて使うしかありません。 当然置き換えきれないものもあることでしょうが、それはそれで放っておけばいいのです。
人の身体はみんな違いますから、もし肉体的に足りないものが多ければ、型を体現したり、身に染み付かせるまでには少々時間がかかる人もいるでしょう。 しかし、先に述べたように身体力学的な肉体の使い方の理解と、思想や理念の理解が互いに肩を並べれば、型は自然と身体から練り出されるようになると思います。焦らずに地道に努力を続けていくことができれば良いですね。
Bartabas氏と桂米朝氏を例に出したことからも明確ですが、私が個人的な美学として最も大切にしたいことは、佇まいや動き、その仕事に輝きや艶があるのかどうかです。
自らのなすことで誰かに感動を与えられるかどうかは、表現者の日々の鍛錬次第。これは一朝一夕に得られるものではありません。
すべては小さなことの積み重ねです。そこに修行の厳しさ、地道にお稽古を続ける意味があるのです。特別な日だけ気合を入れて上手にやろうと思ってもうまく行きません。
自然と身体が動いているときは、きっと心は落ち着いていて、自分自身はまわりの世界と調和していることでしょう。
普段から自然のリズムに従いていねいに暮らすことは世界との調和です。それが本人は気づかぬとも輝きとなって外に自ずと滲み出で現れます。ちょうど衣通姫の美しさが衣を通り越して現れたのに似ているかもしれませんね。
夏のはじまり、どうぞ心を穏やかに。
一日の終わりに独り静かに座し、自分自身の呼吸に集中する時間をつくってみましょう。夜の闇の中で自分自身が闇と同じになるころ、今自分に与えられた役割が見えてくるかもしれません。
どうぞ心涼やかにお過ごしください。
PROFILE : Ginger(じんじゃ~)