第5回「学び」

第5回「学び」
みなさまごきげんいかがですか?
ピラティス指導者のGinger(じんじゃ~)です。

晩夏の残暑はありますが、風は涼しく、夕刻の空が美しい季節です。
今月はじめの満月は末広がりの日付でしたね。そして部分月蝕もあったとか。みなさまはどんな想いで迎えられたのでしょうか?
関西では台風一過、澄んだ青い夜空にくっきりとした輪郭の月。強い風に舞う雲が龍のように蠢き、金の光が雲間から漏れ出る様がなんとも美しかったです。煙のように渦を巻きながら流れる雲を見上げながら、あぁやはり雲も水なんだなと、ぼんやり思っておりました。京都は建仁寺に『双龍図』という迫力の天井画がありますが、龍は水を司る生き物。僧たちに法の雨を降らせてくれるというのだそうです。なんとも浪漫が溢れているではありませんか。夜空を見上げながらいろいろな想いが頭の中を駆け巡り、なんだかふわりとした月夜でした。

天体の動きは神秘的でいて運命的。
光はいのちの輝き。それを陰らせる蝕には大きな力が宿り、今まで停滞してきたものを動かしたり、精神と肉体に気付きや変化をもたらしてくれるといいます。
私はあるひとつのことを、心から好きだと気付いた日でした。
もちろん以前から好きだからこそ関わってきたことなのですが、ふとこみ上げてくる深い愛情とも呼べるほどに強い想いに、自ら少し戸惑ったほどです。
この感情を大切にしたいと思いました。

宇宙を構成する要素はそのまま私たちのからだを構成する要素でもありますから、月の引力で満ち引きする潮も、からだの中の水も同じいのち。
わたしたちは光も影も両方この身に持っています。
image2 夏も終わりに近づき、風神様と雷神様がご到来すればもう秋の始まりです。(そう言えば件の建仁寺には、国宝の風神雷神図の他に、書道家の金沢翔子さんの書『風神雷神』があります。
風神の伸びやかでいて力強い線と、雷神の稲妻を連想させるリズム感のある流れ。いつまでもその前に座って楽しんでいられます。)
万物の実りに感謝をする季節は、秋祭りにお月見に、風情がありつつも賑やかです。
嵐が好きではないという方も多くおられるでしょう。私は嵐の空が好きなので、我ながら変わっているなぁと苦笑してしまいます。もちろん自然災害は恐ろしいのですが、天を轟かせる雷鳴を聴くと人間の無力さや『生かされている』感じが強くなるのです。
日本は水に恵まれた国。日本の美しさとは雨や雪のつくる湿度の美しさであると私の好きな絵本作家さんが仰っていたことを思い出します。
必要なことはすべて与えてくれる天地。全てはバランスです。

*

コラム第五回は学ぶことの中にあるバランスについて、あれこれと書いてまいります。

私は幼い頃から自分で奔放に遊ばせて来た感性を軸に、ピラティス、TYE4®(タイフォー)、リンパマッサージやアーユルヴェーダなどを指導させていただいておりますが、ピラティスで培った身体の感覚はまだまだ浅いもの。そして私のお客様(生徒さんたち)は私より年輩であったり、仕事年数や人生経験、また若さというケレン味のなさという点に於いて、なにかしら私に教えてくださる存在です。もし私がピラティスをただの運動として指導をしていたのであれば、このような気持ちにはならなかったことでしょう。何しろ私が本当に指導をしているのはピラティスそれ自体ではありませんからね。(語弊のある言い方ですが、私のクラスを何度か受けたことのある方ならば私の言わんとするところが仄かにわかっていただけるのではないでしょうか?)
兎にも角にも、仕事をするということに関しては私自身が一生涯生徒でありますし、自分以外はみんな師であるという気持ちでいます。
仕事の一環として自分自身のお稽古には当然通いますし、プロフェッショナルの手によるメンテナンスも定期的に受けます。仕事のお稽古とは別に、ワークショップなどに参加したり、全く違う分野の新しいことも学びますが結局は仕事へつながっていくので面白い部分ではあります。
image3 学び、とはさまざまな形で私たちに訪れます。
学校という場での学び。
習い事という学び。
日常生活の中にある学び。
仕事という学び。
恋愛という学び。
お金になる学びもあれば、一銭にもならない学びもあります。
そして一銭にもならなくても、むしろお金を払ってでも得たい学びもあります。それは旅に出る理由の一つでもあると思います。

私は佐久間象山先生の「学問に道と芸あり」という言葉は今の時代に特にぴったりのような気がしてなりません。
「道」とは、人格形成のためのもの。中国哲学では人や物が通るべきところであり、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元などを広く意味する言葉ですが、日本の武芸における「道」とは価値観や哲学とも言われ、一つの物事を通じて生き様や真理の追究を体現すること、自己の精神の修練を行うことです。日本独特の所作や価値観にそれはよくあらわれています。
一方「芸」とは習って身につけるわざ、修練の末に身につけたわざのこと。芸によって収入を得ることもできます。むしろ、収入のために生かす学問でしょう。
現代の人々は、何かにつけて目立つこと、格好良さを求めがちですが、象山先生の時代(もしくはそれ以前)からそんなことに苦言を呈していたということに驚きます。
私がイギリスの美術大学にいた頃、西洋のファインアート作品というものにたくさん触れ、Damien Hirstという名の現代美術家の存在を初めて知りました。彼はコンテンポラリー・アートの世界では勿論有名な方です。名前にピンとこなくても彼の代表作を見れば必ず「あぁ、この人!」となる理由は、死んだ鮫、牛、羊などをホルムアルデヒドに漬けて保存した『Natural History』シリーズが視覚的意味でも感覚的な意味でも過剰なまでにショッキングだからでしょう。
論議は様々でしょうが、私は個人的に彼の作品に於けるいきものの死の扱いに賛同できません。
しかしながら、彼に代表されるような、一般大衆の道徳・倫理観を揺るがせる作品を発表するアーティストたちの登場は、本人たちの真意は別として芸術の世界に「なんでもいいからやった者勝ち」「目立てばOK」といった印象をもたらしてしまったのでしょう。ポップやキッチュという都合の良い言葉で誤魔化された、自分勝手で、下品で、俗で、扇動的で、乱暴で、「道」を欠いた『芸術作品』にうんざりする機会のなんと多いことでしょう。
ー 芸を求めすぎて道が置き去りになっている ー
象山先生は道と芸の両方が必要だと説きます。
image2 芸術、アートとは本来生きる力の持つ美しい光と、その影を極限まで抽き出し、非言語をもって昇華させ、鑑賞者に何かしらの心の動きをもたらすものだと私は思います。
ひとつの作品をどう観るか、感じるかは人それぞれですし、ライフステージによって受け取り方は変わります。それはその作品に創り手の本気が込められているからに他ならないのです。
例えば私にとって岡本太郎、フリーダ・カーロ、舟越桂といったアーティストはまさに「あまり心地よくない第一印象」から、「大好き!」に変わった例です。
それは彼らの作品との出会い方が大いに関係していますが、彼らの作品には間違いなく本気があり、「道」を感じます。

では、道について(難しく感じるかもしれませんが)もう少し書いてみることにします。
先ほど人格形成のこと、と触れましたがそれではたいそう過ぎると感じるのであらば、品性や躾、立ち居振る舞いと考えてみてはどうでしょうか?
「躾」とは「美しい」所作が「身」につく事を表した和製漢字なんだそうです。
心は身体の動きに(思っている以上に)現れますから、心の鍛錬度合いを測るひとつの指標が身体、所作でしょう。
当然その場限りを取り繕ったものや、付け焼き刃であればそれこそ「芸」ですから、これを理解し学ぶのであれば、日常生活がそのまますべてお稽古、鍛錬となっていきます。

狂言師の野村萬斎さんの言葉で、とても印象的なものがあります。
『私にとっての教養とは、「生きていくために身につけるべき機能」のことである。知識として暗記したものは教養ではない。狂言であれば、狂言師が舞台をつとめるための教養は「型」である。その「型」を個性・経験でアレンジしながら使っていくことで表現になる。これが狂言の一つの道筋である。
(中略) 子供の教育にとって、個性の尊重が大切だとよく言われるが、教養を身につけていない子供に個性を求めても仕方がないのではないだろうか?』
ー野村萬斎 著『狂言サイボーグ』(2001年 日本経済新聞出版社)より
image3 躾に関して私は何も偉そうなことを書くことはできませんし、お作法の先生などではありませんが、どんなに小さな子供でも人として身につけるべきことはあります。
例えば私は小学生の頃、先生から休み時間中に次の授業に使う教科書やノートを机に揃えておくことを教わりました。それは整理整頓に始まり、けじめ、準備の大切さ、そして何よりも相手(この場合は先生や級友)に対する礼儀であるということを教えてくれていたように思います。
義務教育の有り難さ、指導をしていただけることへの感謝など微塵もわからない子供のうちはある程度仕方がないことでしょうが、何かを教わる時にぼんやりとしていたり、受動的に先生の講義を聞いているだけでは何も身に着かないでしょう。自らの真摯な気持ちを表現することで、先生の指導意欲に拍車をかけることは大事なことです。その方法のひとつが道具をきちんと揃えることであり、姿勢や身だしなみ、言葉遣い、質問や教室の外での過ごし方なのだと思います。
私は個別指導塾の講師をしていた頃がありました。まだピラティスの指導者になる前のことです。
私が担当していた生徒たちの大半は高校受験生たちだったのですが、小学生たちを指導することもありました。
T君というまだ声変わりもしていない、歳の割には背の小さな男の子は嫌々塾に通っており、教わる準備が出来ていませんでした。気も散りやすく、じっと座ることが出来ない、いわゆる『構って欲しい』の裏返し行動。
T君は授業を受けずに済む理由を色々と作っていましたが、そのうちのひとつが「鉛筆が尖っていない」でした。先の丸い鉛筆を何本も時間をかけて鉛筆削りでガリガリする時間は、授業になりません。
私は彼に『鉛筆削りを使うなんて、格好悪いぜ!』とカッターナイフで鉛筆を綺麗に削って見せました。
その時に初めて彼が私に教えを乞うてきたので、机の上に反故の紙を敷くこと、ナイフの刃の扱い方、削った後の削りかすの処理などきちんとさせてみました。最初は刃の寝かせ方がなかなかわからずに苦労していましたが、脇を締めて姿勢を正し、呼吸のリズムに合わせていくと簡単なんだとわかってからは、おしゃべりを止め、椅子の上に正座をして机との距離を調整して鉛筆を削っていました。
私は『筆箱の中に常に尖った鉛筆が入っていることは格好良い』『授業が始まってから鉛筆を削るなんて格好悪い』という感覚を伝え続けました。
そんなことが幾日か続き、自分できちんと削った鉛筆を筆箱に満たして自慢気に授業に来た際は、心から彼を褒めました。
彼にとって学ぶべきは国語や算数ではなく「集中力」と「教わる態度」だったのです。
教わる態度というものは、先生への敬意の現れですから決して強制できるものではありません。ただ興味のあることへは自然と心が動きます。きっかけはそれで十分でしょう。そういう意味では先生すらきっかけに過ぎません。私はそれで良いと思っています。
教わる準備を整えることが身に付けば、どんなことでも堂々と学び、「道と芸」に向かって行けます。
image9 趣味のお稽古事というものは、ただ一時の興味を満足させるものであることがほとんどですが、いわゆるプロフェッショナルたちの中には、もともと全然別の夢を持っていたり、たまたま他人に誘われて付き合いでお稽古を始め、それがいつしか職業になっていたという例も多く存在します。
お稽古はきっかけが単なる興味や憧れ、たとえ見栄やプライドであったとしても、長く続けていく中でいつしか心の糧や、自分の一生の伴侶となるような存在と変わると私は思います。地道なお稽古をひたすらに続けることは、心の在り方を変えるやもしれません。
しかし、ただ漫然と続けることではなにも変わりません。それはお稽古自体があなたを変えるのではなく、あなた自身がお稽古を通じて変わるからです。
己と向き合い、己の求めることを知ること。そして理想は己に与えられた役割を知り、それを果たすこと。もちろん、これはとても簡単なこととは言えませんね。しかし、「簡単ではない = 不可能」では無いはずです。

一見どんなに違う分野のお稽古でも突き詰めれば目指すことはたった一つの大きな目的に集約されていきます。
個性に関してはその人らしさに加えて、何よりも確かな品性や教養に裏付けられた個性ほど気持ちのいいものはありません。芸はそこから生じます。
それぞれが鍛錬する道と芸が中庸を保った時、他の誰かの道を知らずに照らしていく。
学ぶことはそのためにあるのかも知れません。